オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」日本語訳の連載第24回です。第10章「会館にて」の続きで、いよいよ卒業リサイタルとその翌日の最後のレッスンの様子が描かれます。
第10章 会館にて(続き)〜
行きなさい、そして練習しなさい!
ハセガワという作曲家によるいくつかの現代曲も加え、私の卒業リサイタルを終えました。鈴木鎮一先生は観客席から私に、もう一度私に演奏してくださいと呼びかけました。コンサートの最後に私のところにやってきた鈴木鎮一先生は、こう仰いました。
「私はとても恥ずかしいです」
「モーツァルトやベートーヴェンを教えることに忙しくて、現代の日本の音楽に目をやるのを失念していました」
鈴木鎮一先生が恥ずかしいと思われた?!
松本のコースを卒業した外国人の教師はごくわずかでした。私が最後のリサイタルを行なうというのは、大変なものだったのです。私は世界の子どもたちのために宣誓を行ない、私の書はステージ上の私の背後に掛けられており、数人の私の日本人教師の友だちが私の演奏を聴くために松本へやってきてくれました。
ステージに掲示するためのバランスの良い書を書くために、私は何週間も書道の練習をし、そこに“Roisu”(Lois)の署名を入れました。私はそれも練習しました。そして掛け軸に掛ける清書を書く数日前に、ある研究生が私に“Fine silk gauze”「絽」と“Crossing the rapids”「瀬」の漢字の書き方を教えてくれました。日本語では、どうやらそれは、“roisu sepato”「絽衣子(ロイス)・瀬巴渡(セパト)」 だったのです。その研究生は、彼女が提案した漢字は、ロイス・シェパードの発音に十分近いと言いました。私が鈴木先生に、美しく練習した書を殴り書きの練習していない署名入りで見せたとき、 先生は大変面白がられました。
リサイタルの翌日、私は最後のレッスンを受け、その直後すぐ駅に行き、空港へ向かいました。
「バッハの『ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調第2楽章』の初めの部分を弾いてください」と鈴木先生は、仰いました。
「では今度は、同じところを最初はすべてフォルテで、次はすべてピアノで弾いてごらん」先生は指示されました。
私はそれに従い、かなりうまくできたと思いました。
「あぁ、オーストラリアに戻りなさい。そして練習しなさい!」手でダメ出しの素振りをしながら、笑われました。
何年も後になって、鈴木先生は卒業生が出発していく際には、決まってそう仰っていたことを知りました。私たちは、自分がすべてを知っているなどと決して考えてはいけないのです。
これが私が学んできたことです
一年ごとに音の変化に気がついて
又新しく音に思う
そしてこれこそほんとうの絃の音だ
と信ずるわが夢
この夢はもう幾度くり返した夢だったろう
今また新しく自然音に気がついて
ここに又新しく絃の鳴る音をきいた
30年の歩み・・・
いつも新しい目醒め
私は又ここからスタートしていく
そして又一年ごとに目がさめて
これこそほんとうの美しい音だ
と気がついていくことだろう
愚かなるわが耳
愚かなる人というもの
鈴木先生は日本アルプスの額入りの絵を私にくださいました。この文章は、そこに書かれているものです。
美しき音にいのちを
そして、先生は美しい書で二つの掛け軸に書かれました。
人は環境の子なり
愛深ければ なすこと多し
先生は二つ目の掛け軸に、日本語の下にペンとインクで英語の翻訳を書き、ローマ字で署名されました。墨と筆で書かれたものは、まだ完全にはっきり残っていますが、英語で書かれたところは完全に消えてしまう前に鉛筆でなぞる必要がありました。私の卒業証書でも英語の署名のところは同じようにする必要がありました。
「しぶい」という言葉は、使用される漢字に応じて、上品で洗練されたという意味合いと、口をすぼめる渋みという意味合いがあります。私の卒業リサイタルの後、何人かの研究生が私に“puckering concert”「渋いコンサート」をありがとう、という英語で書かれたカードをくれました。
鈴木先生ご夫妻は、私がずっと日本で教えることを熱望されていました。特にワルトラウト夫人は私にとどまるべきであると心配してくださっていたのです。岡山県倉敷市にある町で指導者を必要としていたのです。
もちろん、私の家族はオーストラリアにいたので、そのようなことは考えもしませんでした。そして、スズキ・メソードをオーストラリアのヴィクトリア州に紹介し、メルボルンでの指導のために、何度も勉強のために日本を訪れました。
でも私は倉敷を見て廻ることはしました。鎖国時代の日本が外国と接触した数少ない興味深い地域でした。建物や運河はオランダを連想させます。それは初期のオランダの貿易業者の影響でしょう。
ロイス・シェパード先生の略歴
ニューサウスウェールズ音楽院及び松本市の才能教育音楽学校を卒業。シドニー交響楽団のメンバーを務める。また、ニューサウスウェールズやヴィクトリアの数々の学校で教鞭をとる。長年、オーストラリア音楽検定委員会の試験官、ヴィクトリア州立大学の幼児教育の学会で講師を務める傍ら、メルボルン大学の音楽院でヴァイオリンとヴィオラを教える。一時期、アメリカの西イリノイ大学のヴィオラ科教授兼スズキ・プログラムの理事を務める。
1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。