追悼! 鈴木裕子先生

 

 8月13日(金)、鈴木裕子前会長がお亡くなりになりました。享年80歳でした。鈴木鎮一先生の姪御様として、折に触れて鈴木鎮一先生の思い出を語ってこられたお姿が思い出されます。

 スズキ・メソードの公式サイトには、8月15日に早野龍五会長からのメッセージが掲載され、長年のご活躍を追悼されました。
 →公式サイト
 
 鈴木裕子先生は、3歳から叔父の鈴木鎮一先生にヴァイオリンを習い始めました。その後、桐朋音楽大学でジャンヌ・イスナール氏と宗倫安氏に師事し、ドイツのシューマン音楽院ではサンドル・ヴェーグ氏に師事されました。以来、スズキ・メソードのヴァイオリン教師としてスズキ・メソードの発展のために生涯を捧げてきました。
 
 また、サマースクール、ウィンターキャンプ、ティーチャーズカンファレンス、ワールドコンベンションなど、日本、台湾、韓国、オーストラリアなどで講師を務めて来られ、広くそのお名前と人柄が知られていました。
 
 2013年4月から2016年8月まで、才能教育研究会の第4代会長に就任。また、2014年4月から2018年3月まで、国際スズキ・メソード音楽院の校長を務め、2019年12月には、才能教育学園・白百合幼稚園創立40周年記念式典を園長先生として開催。2020年7月から豊田耕兒先生の後任として、国際スズキ協会の名誉会長を歴任されていました。
 


 お嬢様でピアノ科指導者の石川咲子先生から、ご家族ならではの思い出を語っていただきました。

母との思い出の数々

関東地区ピアノ科指導者 石川咲子 
 

 ご存知の方は簡単にイメージが湧くと思いますが、元気で朗らか、常に前向き、楽観的、そのような性格の母でした。常に前向きというのは目指してはいてもなかなか難しい局面もあるとは思うのですが、なんの力みもなく自然にそのような生き方を示してくれる存在でした。
 

デュッセルドルフ時代。父、石川稔と兄の滋、私と母

 私の父は商社に勤めており、私が生まれる頃にドイツのデュッセルドルフに転勤になりました。4歳上の兄と生まれたばかりの私を連れてドイツでの生活が始まった訳ですが、そこでの密度の濃い家族との時間は本当に貴重なものだったと思います。当時は現地に慣れることが優先だったようで、約5年の赴任期間中一度も帰国ができず、親類縁者のいないその地での生活は不安も多かったと思うのですが、ポジティブな母のおかげで、家族の絆を深められた気がします。

 母はドイツ語は初心者でしたが、持ち前の明るさでプレッシャーにも感じず、習得していたようです。「生活で必要な単語、例えばお野菜やお肉などを男性名詞・女性名詞を付けて一緒に覚えていったのよ」と後に話していました。私が大学でドイツ語を選択し、いろいろ質問した際には、その頃の単語ノートを見せてもらったことがあります。そこには日常で頻繁に使う単語や会話文がたくさん書いてありました。
 
 私が3歳の頃、外で転んで人差し指を怪我してしまい、日が経っても治りが悪く、お医者様に行くとすぐにレントゲンを撮られ、「折れています」と言われたそうで、その時の単語は「習っていなかったけど、すぐにわかった」と笑っていました。私はこのようにケガが多く、日本に帰国してからも学校でケガをして母に呼び出しがかかり、唇と下顎を縫うショッキングな体験も母にさせてしまいました。
 
 そのように兄より「やんちゃ感」の強い妹だった訳ですが(笑)、母がどのように私たち兄妹を育てたのかと振り返ると、”お兄ちゃんと妹”というより、それぞれできる役割を躾のような形で教えてくれた気がします。今の時代はそれももう古い形かもしれませんが、男の子にできるサポート=夕方暗くなったら駅に迎えに来てもらう、女の子にできるサポート=母が仕事をしている間に夕食の準備を手伝う、などです。幼い時から些細なことでも支え合えるよう育ててもらい、幼少期は絶対的に兄の方がサポート役が多くなったと思いますが、穏やかな性格の兄と激しい兄妹喧嘩などは、まったくありませんでした。その頃からどちらの存在も尊重してもらっているという意識が芽生えていたお陰だと思います。
 
 商社勤めの父は49歳の時、体調を崩し、最初に行った町の病院で末期の食道癌と診断され、そこからは幸せに何の陰りもなかった我が家に試練の日々が始まりました。母は心の準備もないままその病院でいきなり宣告を受け、それがどれほどのショックだったかは想像もできませんが、お医者様からそれを告げられた瞬間に「まず心に浮かんできたのは咲子のことだった」と後に話していました。母自身も父親っ子で、娘として父親との別れがどれほど辛く寂しいか痛感していたので、まだ父に頼りっきりの18歳だった私に対して、「ただただ不憫で…」と言っていました。
 
 そして1年弱で、父は50歳の時に亡くなりました。当時は母だけではなく兄も車の運転などして父の療養を手伝ったり、精神面でも母の支えになっていたと思います。私は受験生でもあったので自分にできることがあまりに少なく、その歯痒さは今でもよく覚えています。
 
 父が亡くなった後は自分自身も強くなりましたし、母に対する想いも変化したように思います。「できるときに、思った時に悔いのない親孝行をしよう」と心に誓ったのもこの頃からです。
 
 母は学生時代に、弾けなかった難しいフレーズが入学試験の時だけ上手に弾けた!という信じられない心臓の持ち主で、私とは真逆のタイプでした。そんな強気な母でも苦手なもの、それは”へび”と”高い所” でした。お化けもホラー映画にもまったく動じないのに、テレビにへびが映し出されるだけで目を隠し、「チャンネル替えて~」と言っていましたし、高い所も、外が見えるエレベーターは大の苦手。あるホテルではこれでは自分の部屋に戻れないのでと、わがままを言い、従業員用エレベーターに特別に乗せていただいたそうです。
 
 ヴァイオリンを弾くことは好きだったようですが、練習は好きではなかったと思います(苦笑)。あまり大きい声では言えませんが、テレビで水戸黄門を見ながら(消音にして)練習をして、印籠登場シーンでヴァイオリンを置き、ボリュームを上げて観る、というスゴ技をやっていました!(生徒さんにおススメできないですが…)母曰く「最後さえ観られればスッキリするのよ!」だそうです。(笑)
 
 そして家庭的な一面もありました。料理に関しては小さい頃からインスタント食品など食べたことがなかったですし、誕生日ケーキなども作ってくれました。母自身とても食いしん坊で、どんな時も食べることで頭がいっぱいのチャーミングな性格でした。例えば旅行していてもどこかを観光するより、「何食べる~?」私が大きなホールで緊張して演奏するような場面でも楽屋に来て、「ちゃんと食べた?おにぎり握ってきたわ!」という感じでした。
 
 他にも刺繍や編み物、レース編みも時間があるときにやっていたのですが、一番の大作は父の看病中、病院で付き添っている間に仕上げた白くて美しいレース編みのテーブルクロスでした。私がグランドピアノの上に敷いて使えるように、とプレゼントしてくれました。
 

夏期学校での鈴木裕子先生

 私がスズキ・メソードの指導者になってからは、大先輩、”指導者・裕子先生”との関係が始まりました。指導者になってしばらくは、私が母と顔を合わせるたびに「この仕事、向いてないと思う、どうしたら良いかわからないし…」「疲れるっていうことは…向いてないのよね、きっと!!」と不安ばかり吐露していたのです。半年~1年と経つまでは、何も言わず励ましてくれたり、聞いてくれていたのですが、ある日また私が同じような不安を伝え始めたら…「あとは10年後に聞くわ!」「10年後に同じ悩みがあったらまた聞くから」ときっぱり言われてしまったのです。

 

奏法の細かいやりとりは、いつもどこでも続いた

 そこからは私も自分にできる努力や研究を積んで、指導にも誠実に向き合っていきました。そしてある日、指導歴10年を迎えたタイミングで母に「お陰さまで指導して10年経ちました。

2019年1月、裕子先生の喜寿を祝う会で、
青木博幸先生と

今はまだひよこですが、この仕事、続けていきます!」と伝えたのを憶えています。

 伴奏者としては20年以上、裕子クラスの生徒さんとも関わる機会を与えてもらいました。その時間を通して”裕子先生”自身も指導者として常に進化していった姿を目の当たりにし、たくさん学ばせてもらったことは本当に宝物です。母の弾くヴァイオリンは晩年良い意味で枯れて、さらに奥深い音色を奏でるようになったと感じていましたが、クラスの生徒さんの音色も同じように深く、芯の強い、上質なベルベットのようでした。その側で私もまだまだ指導者としても進化できる!とパワーをもらったものです。
 

叔父鎮一が晩年まで弾いていた楽器を使い、
心を込めて演奏した

裕子先生の左が、本会顧問の宮坂勝之先生、
右が手術執刀医の海道利実先生、兄夫婦と私(2020年7月)

 2019年9月に胆管癌と診断され、母の闘病生活が始まりました。応急処置の手術を終えて、退院4日後に”音にいのちあり~鈴木鎮一 愛と教育の生涯~”(まつもと市民芸術館)の舞台冒頭での”名古屋の子守歌”の演奏は満身創痍、母の最期の公での演奏となりました。その時に舞台袖で聴いた、魂のこもった音は忘れられません。

 それからも生徒さんのレッスンは6月の1週目までがんばって通い、最期までスズキ・メソード ヴァイオリン科指導者現役を貫きました。クラスの皆さんにはその後大変ご迷惑をおかけしましたが、どうか母から託された最高の音色をこれからも奏で続けていただきたい、と願っています。
 
 食いしん坊な母は「病院のごはんはイヤ…」と言い、最期まで自宅に居ることを希望し、私の手料理を食べていました。最期の会話は、その日久しぶりに作った柔らかめの豆乳のポテトグラタンを「どう?」と聞いた時の返事で、「おいしい…」でした。幼い頃からたくさん美味しい手料理を作ってくれた母に少しだけ恩返しができたかな、と思っています。
 
 生前お世話になった先生方、関係者の皆様、そして夏期学校や世界大会などで出会った生徒さん方、本当にありがとうございました。感謝の気持ちでいっぱいです。どんな些細なことでも、もし母のことを思い出していただける瞬間があれば、母も私たち家族も嬉しいです。
 
 私たち家族は母からもらったハッピーな人生観を忘れずに、毎日を大切に生きていこうと思います。