蔵持典与先生による「鈴木鎮一先生の生涯と才能教育運動の歴史
連載 第3回

 
 関東地区ヴァイオリン科指導者の蔵持典与(くらもち ふみよ)先生の著作「鈴木鎮一先生の生涯と才能教育運動の歴史」の英訳版(翻訳:リリー・セルデン)が、ISA(国際スズキ協会)の公式Webサイトで紹介されました。その様子は、以下の記事でご覧いただけます。
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 マンスリースズキでは、蔵持先生のご快諾をいただき、その著作を日本語で連載していきます。今回は、「第1章 父と母」の2回目です。


 

第1章 父と母 その2

 
ヴァイオリン製作の本格化
 

鈴木政吉

 そのような苦労を重ねて後、政吉は1889年に上京し、東京音楽学校の教授でオーストリア人のルドルフ・ディトリッヒ(1861-1919)に楽器の試奏を請い、「和製品としては第一位」という高評を得て、1893年には同教授が推薦文を書いている。要約すると次のようになる。

 「鈴木氏の楽器は完成の域に近づいており、構造の各所のみならず音も著しく進歩しており、学校や合奏の場に適している。また価格が低いので、誰でも入手し得るであろう。ますます良質の製品が製造されることを期待する。」*13
 
 また他の教員たちの助言や、外国製のヴァイオリンの入手などによって政吉のヴァイオリンは徐々に上質なものとなり、後に当時の日本人トップクラスの音楽家、幸田延(1870-1946)をはじめ多くの音楽教師からの推薦を受けるまでになった。1890年以降は巷でも徐々にヴァイオリンの需要が増していき、国外からの音楽教師も次々に訪れて、国内でも優れた音楽家が育って行った。*14
 
 政吉が次に行なったのは販路の拡大である。東京銀座で書籍販売をしていた共益社に、まず唱歌の本を買いに行って様子を伺い、翌日自作のヴァイオリンを持参してその販売を打診してみた。するとすぐに「何種類くらいできるか」との質問を受けたので、「まず3種ほど」と答えると、「では3種の見本を送るように」という、予想を凌ぐ答えが返ってきたのである。*15 そして共益商社の白井練一が関東を一手に販売し、後に白井から紹介された、関西方面の販売網をもつ三木楽器店の三木佐助が関西一手販売を引き受けて、全国に政吉のヴァイオリンの販売網が広がっていった。*16
 
 ここで一つのエピソードを紹介しよう。
 ある時政吉は、松岡義輔という医師に専売特許の取得を勧められる。政吉が、ヨーロッパに伝統のあるヴァイオリンには特許はとれない、と言うと、「それなら自然の特許をとれ」と言われる。しかしその意味がわからず尋ねると、松岡は「人のまねのできないこと、それが自然の専売特許だ」と答えたのである。この言葉に触発されて、政吉は、「舶来物を凌ぐ立派なものを、うんと安く供給しよう」と決心したという。*17
 
 1890年、政吉は名古屋氏東門前町に家を購入し、数人の弟子とともにヴァイオリン工場として本格的な生産を始めた。その年、東京、上野公園で開かれた第三回内国勧業博覧会において、政吉のヴァイオリンは最高賞の三等有効賞を受賞する。ヴァイオリン製作第1号から、わずか2年後の快挙であった。*18
 
 続いて1893年に米国で行なわれた“シカゴ・コロンブス博覧会”において、「鈴木政吉のヴァイオリン」が褒賞を受け、その証書には、「優れた音質および優れた技術と仕上がり」と評価された。*19 ここにおいて政吉のヴァイオリンが国際的に評価されたのである。
 
 1894年日清戦争が始まるが、1895年に日清休戦条約が結ばれて日本は勝利を収める。そして1890年代も終わりになると、洋楽が普及してヴァイオリンの需要も増えて来た。その頃から廉価の輸入楽器も見られるようになり、政吉は、大量生産の方法を模索し始めた。その方向に踏み切った要因の一つは、東海地方が古くから木材の生産地でもあり、物流にも恵まれて、木材加工業の中心的な地域であったことが考えられる。*20 しかし、大量生産のために必要な機械は思わしいものが見つからず、結局自ら開発に取り組んで、ヴァイオリン頭部の渦巻き(スクロール)の自動削機と、表裏に丸みをもたせる加工のための甲削機をはじめ、最終的には21種の発明を成し得たという。*21
 
 1900年には、19世紀最大のパリ万博が開催され、政吉もヴァイオリンを出品したが、ここでは選外佳作の褒状を得たに過ぎなかった。この結果に関しては、審査員の批判めいたコメントがつけられ、一部には欧州作品に鈴木のラベルを張り付けたのではないかと思われたため、正しく評価されなかったのでは、というようなエピソードも伝わってはいるが、真相は不明である。*22
 
政吉のヴァイオリン教則本
 

『ヴァイオリン独習書』 表紙 国立国会図書館蔵

 ここで、1902年に政吉が著した『ヴァイオリン独習書』 *23を紹介したい。表紙には、かつて唱歌教育の師であった「恒川鐐之助閲」の記載がある。12×19cm、44ページの小冊子である。

 第1ページに、楽器の構え方、左手の形、立ち方、弓の持ち方、基本的な運弓法、松脂について文章で解説のあと、2~3ページにそのイラストと、詳細な調弦法が書かれている。
 

『ヴァイオリン独習書』 最初の音階 国立国会図書館蔵

 4ページからは楽譜が加わり、興味深いのは、練習1が、E絃から始まっていることである。6ページには指板上の指の位置を示すイラストがあり、練習4で、イ長調の音階が出現する。

 

松本善三著『提琴有情』p.76 図22
名古屋市連合会演奏会より 矢印:筆者

 当時のヴァイオリン教育の主流がホーマンであったことを考えると *24、イ長調から音階を始めるという発想は独特のものであったに違いない。またそれは後年、鎮一が始めた、世界的な音楽教育であるスズキ・メソードのテーマ曲とも言えるキラキラ星変奏曲がイ長調から始まることと、何らかの関係があるかとも考えられる。その後はイ長調の練習曲が続く。

 
 次いでニ長調、ト長調、ハ長調、ヘ長調、ホ長調、変ロ長調、変ホ長調、変イ長調まで同様の方法で練習が進む。最後の4曲は二重奏である。
 
 
 
 


*13.前掲書『提琴有情』 p.33-34
*14.前掲書『日本のヴァイオリン王-鈴木政吉の生涯と幻の名器』 p.51, 55-56
*15.前掲書『中京実業家出世物語』 p.78-79
*16.前掲書『提琴有情-日本のヴァイオリン音楽史』 p.34
*17.前掲書『中京実業家出世物語』 p.80-81
*18.前掲書『日本のヴァイオリン王-鈴木政吉の生涯と幻の名器』 p.60. 66-68
*19.前掲書『日本のヴァイオリン王-鈴木政吉の生涯と幻の名器』 p.70-71
*20.『近代化産業群 続3:近代化産業遺産が紡ぎ出す先人達の物語』 (2008) 経済産業省 p.96
*21.公文書による『発明のチカラ』 (2010) 国立公文書館
*22.前掲書『日本のヴァイオリン王-鈴木政吉の生涯と幻の名器』 p.89-91
*23.『ヴァイオリン独習書』 鈴木政吉 (1902) 豊住書店
*24.前掲書『提琴有情-日本のヴァイオリン音楽史』 p.12


蔵持典与先生の略歴

 

 9歳から故、田沢毅氏にヴァイオリン指導を受ける。13歳から鈴木鎮一氏のプライベートクラスに在籍し、1964年第1回海外演奏旅行(テンチルドレンツアー)の一員として鈴木夫妻とともに渡米。早稲田大学在学中に同氏から直接スズキ・メソードの指導者認定を授与され、卒業後東京で指導を開始。1975年渡仏し、ジャン=ジャック・カントロフ氏の下で学ぶ。1977年帰国後、国内外の国際アカデミーで研鑽を積み、その後、江藤俊哉、豊田耕兒各氏に師事。1985年日本演奏連盟主催「えんれんコンサート」を経て、室内楽奏者としての活動を開始。同連盟の20周年記念フェスティバルに出演。現在スズキ・メソード指導者およびティーチャートレーナー、国際スズキ協会(ISA)ヴァイオリン科委員。