蔵持典与先生による「鈴木鎮一先生の生涯と才能教育運動の歴史」
連載 第6回

 
 関東地区ヴァイオリン科指導者の蔵持典与(くらもち ふみよ)先生の著作「鈴木鎮一先生の生涯と才能教育運動の歴史」の英訳版(翻訳:リリー・セルデン)が、ISA(国際スズキ協会)の公式Webサイトで紹介されました。その様子は、以下の記事でご覧いただけます。
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 マンスリースズキでは、蔵持先生のご快諾をいただき、その著作を日本語で連載していきます。今回から、「第2章 父と母」がスタートします。


 

第2章 (1)

 
1.  幼・少年期
 
 鎮一は、1898年10月17日、名古屋市東門前町に、政吉と良の間の長男として生まれた。良は正妻ではなかったが、当時の慣習としては珍しいことではなかった。しかし政吉の自宅に、正妻の乃婦(のぶ)と側妻の良がともに住まい、その子どもたちとともに、皆仲睦まじく暮らしていた姿は、珍しかったかもしれない。政吉には、鎮一より先に二人の男子があり、実際には政吉の三男であった。1
 
 当時の日本は、日清戦争(1894-1895)に勝利の後の一時的な好景気に沸いたものの、南下するロシアに対する危機感を孕んで国内の経済状況は厳しいものになりつつあった。しかし政吉の工場は、大量生産が徐々に本格化して急速に成長していた時期であり、鎮一は、9男4女(そのうち男子2人と女子1人は夭折)というたくさんの兄妹と、数人の家政婦たちに囲まれた裕福な家庭で育った。
 
 しかし、武家の気風を継ぐ鈴木家では行儀作法と子どもの躾は厳しく、男子は朝の礼が済むと皆、台所で正座して食事をとり、子どもたちには拭き掃除の当番が割り当てられ、来客の折に履物を揃えることが決まりになっていたという。2
 
 なおこの履物を揃えるという行為は、室内では靴を脱ぐ、という慣習のある現代の日本でも生き続けている習慣であり、「自身の足元を整える」、つまり、常に自らを省みる意でもある、「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」という禅の教えに基づくものと考えられる。
 
幼少期の思い出
 
  小学校に入った鎮一は、教育熱心で躾は厳しいが、温厚な性格の担任、柴田教諭に大いに感化を受けた。当時級友であり、クラスの級長を6年間務めた森は、家が貧しく、新聞配達をして家計を助けていた。副級長だった鎮一は、森と一緒に働くことは叶わなかったが、3年間、毎朝5時に起きて、その配達を手伝うのだった。3
 
 自宅が楽器工場に隣接するという環境の中で育った幼少期の鎮一にとって、ヴァイオリンは「玩具と同じ」であり、「兄弟喧嘩のときにはヴァイオリンで叩き合っていた」という。需要が多くて忙しいため、毎晩50人ほどの職工が残業しており、小学校時代には毎晩のように工場の手工部に出かけて行った。そして彼らが木を削りながら上手に語る、その頃人気のあった講談の武勇伝の数々を、鎮一は夢中で聞き入ったのである。そして、いよいよこれからクライマックス、というときに「さあ、ここで餅を焼こう」と工員が言うと、鎮一は工場の隣にあった自宅に戻り、一目散に餅を持ってきて、一緒に餅を焼きながら、話の続きをせがむのだった。4
 
商業学校時代
 
 1910年、名古屋市立名古屋商業学校に入学。この頃から、夏休みに父政吉のヴァイオリン工場を手伝うようになる。なお、当時の商業学校は5年制であった。5
 
 校長は、その生涯を商業教育に捧げた市邨芳樹(いちむらよしき1868-1941)という人物で、鎮一は「精神的に非常に大きなものを与えてくれた」と述懐している。6   学校の玄関正面に掲げられた「一に人物、二に技量」という扁額の精神は、自身の「一生の生きる道を照らすともしびとして、心に深く残されている」と、鎮一は述べており 7、後年、自身の進物として数多くの人々に進呈した直筆の短冊にも、しばしば記した言葉である。
 ここで市邨芳樹について少し述べると、同氏は市邨学園の創立者であり、名古屋商業学校の校長を務めた4年の間に、3つの博覧会(セントルイス博覧会、日英博覧会、パナマ太平洋万国博覧会)で、日本の商業学校を代表する出品者を出した人物である。8 
 
級友のカンニングと全学のストライキ
 
 鎮一は、熱心に勉強するよりは哲学書や禅書を読んだりすることに時間を費やしていたが、人望は厚く、2年生から4年間級長をつとめた。
 
 事件は、卒業試験で起きた。クラスのある生徒がカンニングをしたところ、それをもう一人の生徒が告発したのである。するとその行為を咎めたもう一人の生徒とが殴り合いになり、担任の問い詰めに対して、鎮一は自分も含め、みんなでやった、と告げたのである。もちろん鎮一は暴力に加担してはいなかったが、友情に欠ける告発行為を許しがたく、また級長としての責任をとったのだった。教室に帰ると鎮一はクラス全員に告げた。「友情に免じてクラス全員でやったことにしてくれ。そして今年は全員落第してくれ」。するとクラスの全員が賛同し、事の次第の調査が終わると、鎮一をはじめ10人が無期停学、他の10人は譴責という結果になった。ところがその制裁が他の生徒の同情を呼び、とうとう全校ストライキにまで発展したのである。9 
 
 殴打事件のあった夜、鎮一は父にすべてを話し、1年落第することを願い出た。すると政吉は、「しかたがないね」と言っただけであった。それは「実に尊い笑顔」だったと鎮一は述懐している。10
 
 全校のストライキは1週間にも及び、とうとう各生徒に登校通知が届けられた。そして講堂に集められた生徒1700人に対し、市村芳樹校長が涙ながらに訓示を述べたあとで、全校生徒の卒業試験のやり直しを告げた。そして結局、全員そろって卒業を果たしたのである。
 
 「己を欺かず」という純粋な気持ちで動いた、若き日の鎮一のエピソードである。11  
 
青年時代
 
 鎮一が16歳のとき、第一次世界大戦が勃発する。ドイツから楽器が輸入できなくなったため、政吉の工場には各国からの受注が次々に舞い込み、世界最大の工場へと発展して行く。しかし倹約を旨とし、誠実で厳しい父の姿は変わらなかった。
 
 この頃、鎮一の人生を大きく方向付ける出来事が起きた。それはトルストイとの出逢いであり、エルマンの音との触れ合いであった。そして多感な十代の鎮一は何かに導かれるように、人生の海原を進み始めるのである。
 
 後に鎮一が自身の教育のモットーとして掲げた「人は環境の子なり」は、そのまま鎮一の成長過程にも当てはまる事実と言える。若い鎮一に影響を及ぼした人物たちの多くは、その時代を代表する賢人たちであった。ここからは、それらの人々についても記してみよう。
 
大きな転機
 
 17歳のある日、鎮一は工場の事務所で、その頃珍しかった英文のタイプライターを、紙を挟まないままポンポンと打っていた。そこに主任の山崎氏が来て「鎮一さん、空のタイプをたたいてはいけませんよ」と注意されたとき、つい「真似しているだけなんです」と答えてしまうのである。
 
 鎮一は嘘をついてしまった自分を「何という卑怯者なんだろう」と悔やみ、「自分自身に対する憤り」でいたたまれずに家に帰るが、それでもじっとしていられずに散歩に出る。そして街中で何気なく入った一軒の本屋で、『トルストイの日記』が目に留まるのである。そして開いたとたんに目に入ったのは、「自分を欺くことは、人を欺くことよりも悪いことである」という「トルストイの厳しい言葉」だった。
 
 この瞬間を、鎮一は「人生の最初に与えられた、非常に大きな一つの転機」と言っている。「全身がふるえるような」感動を覚えた鎮一は、その時からトルストイの全作品の研究を始める。それ以降鎮一は、この「小さな本」を「どこへ行くときもいつも持って歩き、長年に亘ってくり返し、くり返し読み且つ考えた」のである。12  
 
 この時以来、鎮一はトルストイの全著作、西洋の哲学書、禅書などを愛読し、人生の探求の道を歩み始める。
 
 鎮一には、母方の叔父に、大学教授であり、また後に中禅寺の貫主となった禅僧の、浅野釜山という人物がいた。13   トルストイに衝撃を受けて哲学の世界に踏み入った鎮一は、また禅にも深い興味を抱いて、道元の『修証義』や鈴木大拙の著書などを愛読し、この頃から禅を真剣に学んでいた。禅の考え方は、その後も様々な場面や鎮一の行動に反映して行くことになる。14  
 

 そんな頃、父が購入した蓄音機で、ミッシャ・エルマン(“Mischa” Elman1891-1967)のヴァイオリン演奏、「アヴェ・マリア」を聴き、その音のあまりの美しさに感動する。そして何度も繰り返し聴き、「音楽への心の眼がはじめて開かれた」と自伝で述べている。

 それまで“楽器”という意識さえなかったヴァイオリンの練習を17歳にしてようやく始め、エルマンの音と音楽を目ざして、我流ながらもハイドンの「メヌエット」をなんとか弾けるまでになったのだった。15  
 
 当時の蓄音機は大きな箱の上に、ラッパ型のスピーカーが乗っているものだった。鎮一は、小さな頃には、その箱の中に人が入っていて演奏しているのだと本当に思っていたものだ、という、子ども時代の微笑ましい思い出話を、筆者に語ってくれたことがある。
 
天使のような子どもたち
 
 その後、18歳で名古屋市立商業学校を卒業し、鈴木バイオリン工場に入社して輸出業務を担当することになった鎮一は、朝5時に起きて弟や妹と朝の散歩をして朝食を済ませると、早々と工場に行って、工員たちと一緒に並んで開門を待った。この生活習慣が、生涯の早起きの習性をつくった、と述べている。帰宅をすると、鎮一を慕っていた近所の子どもたちが待ち構えていた。その子どもたちと弟妹とともに過ごす時間が鎮一にとって「一日の中で一番楽しいもの」だった。16  
 
 十代の鎮一は、弟妹と一緒に近所の子どもたちとよく遊んだ。そして、いつしかその4,5歳の子どもたち―純粋で人を信じ、愛することのみを知り、憎むことを知らず、喜びを求めて常に安心の中に生きている―その子どもたちに「合掌したいほどの尊さ」を覚えるようになった。その時に、鎮一の心の中に「大きな革命」が起こり、「大切な内的な仕事がスタートした」のである。17  
 
 なぜ、美しく純粋な子どもが、成長した後にその姿とはうらはらな不幸な人間になってしまうのか、その疑問こそが、後に鎮一に、“教育”とは何か、を真剣に考えさせるきっかけとなったのである。18  
 


注
1  匿名希望の鎮一の親族からの情報による
2 『愛の人 鈴木先生』 本多正明 (1978)全音楽譜出版社 p. 9-10
3  前掲書 p. 11-12
4 『歩いて来た道』 鈴木鎮一(1960)音楽の友社 p. 31-32
5  前掲書 p. 32
6  前掲書 p. 29
7 『愛に生きる』 鈴木鎮一(1966)講談社現代新書 p.130
8  市邨学園Webサイト https://ichimura.ac.jp
9  『歩いて来た道』 p. 18-24
10 『愛に生きる』 p. 133
11 「歩いて来た道」 p.27-28
12  前掲書 p.7-11
13 『才能は愛で育つ 鈴木鎮一の人と哲学』 エヴリン・ハーマン著 畑野将顕訳(1984)主婦の友社
14 『愛に生きる』 p. 128
15 『歩いて来た道』 p.15-17
16  前掲書 p. 33-34
17『愛に生きる』 p.128-129
18 『歩いて来た道』 p.12-14


蔵持典与先生の略歴

 

 9歳から故、田沢毅氏にヴァイオリン指導を受ける。13歳から鈴木鎮一氏のプライベートクラスに在籍し、1964年第1回海外演奏旅行(テンチルドレンツアー)の一員として鈴木夫妻とともに渡米。早稲田大学在学中に同氏から直接スズキ・メソードの指導者認定を授与され、卒業後東京で指導を開始。1975年渡仏し、ジャン=ジャック・カントロフ氏の下で学ぶ。1977年帰国後、国内外の国際アカデミーで研鑽を積み、その後、江藤俊哉、豊田耕兒各氏に師事。1985年日本演奏連盟主催「えんれんコンサート」を経て、室内楽奏者としての活動を開始。同連盟の20周年記念フェスティバルに出演。現在スズキ・メソード指導者およびティーチャートレーナー、国際スズキ協会(ISA)ヴァイオリン科委員。