オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」日本語訳の連載第11回です。今回から、第6章「ワルトラウト夫人」の章が始まります。知られていないエピソードなどが随所にあり、興味深い内容が続きます。
第6章 ワルトラウト鈴木夫人
ワルトラウト鈴木夫人のことは良く覚えています。彼女のふくよかな胸元、喉の奥から出てくる深みのある声(彼女は歌手だったと記憶しています)、顎が外れそうなほど大きな笑い声、そして強いドイツ語訛り。彼女は本当に素晴らしい女性でした。外国人などほとんど見かけない1929年の日本に、若い日本人のところに嫁いで行くなど、なんて勇気のいることだったでしょうか。
まず最初に、ワルトラウト夫人は海外からのすべての郵便物の処理をしていました。英語もドイツ語並みに堪能だった夫人は、すぐに日本語も流暢になりました。しかし、ドイツ語が母国語である夫人にとって「愛に生きる」を英訳するのはたやすいことではありませんでした。この特別な仕事を終えた後「もう二度と漢字を見られなくても構わない!」とおっしゃっていました。
日本語には3通りの書き方があり、それを混ぜて文章にします。漢字は5世紀ごろに古代中国から伝わった文字でとても複雑です。小学1年生で46個の漢字とそれ以外に100くらいある2種類の表音文字を学びます。そして学年が上がるごとに覚える漢字の数は増していき、学生生活を終えるまでには1850個の漢字を習得します。
ということは、「愛に生きる」を翻訳するには少なくとも1850個の漢字を知っている必要があります。漢字辞典というのは表音順に並んでいるわけではないので外国人にとってはかなりの試練だったことは確実です。
時によって、ある種の漢字が簡略化されることがあり、テレビなどの字幕で使われたりします。そんな時、ワルトラウト夫人は非常に怒っておられました。「なんて馬鹿げているのでしょう!」。外国人にとって簡素化される前の何百もの漢字を学んで覚えるということがすでに紛らわしいというのに。
鈴木先生の心は、教えることだけに集中されていました。研究生に会ったらそれが夕食の場でも階段でも、トイレでさえも音色の問題について話されたものです。
教育は教と育なり 育なければ教はゼロなり
どの子も育つ 育て方ひとつ
常に思いやりがあり、献身的であった夫人は、鈴木鎮一先生の素朴さと同時に明敏さも理解していました。ですので、日常の雑多に煩わされている暇はない鈴木先生のかわりにワルトラウト夫人が他のすべてのことに対処していました。
「も~まったくあの鈴木先生ったら!」といって夫人は優しく笑っていました。
「毎朝彼はオレンジジュースがどこにあるか私に聞くのよ。そして毎朝私はオレンジジュースはいつも同じ冷蔵庫の中よって言うの。まったく、あの人ったら」。
作ってくれるものがいないと、まる一日なにも食べないような私です。でも幸い、妻が私がちゃんと栄養を取っているかをみてくれています。
あるとても寒い冬の日、夫人と私がおしゃべりをしていると鈴木先生が興奮した様子で近づいてきて言いました。「外を歩いている人たちが、皆ヘッドフォンをつけているんだよ」と。鈴木先生は松本の人たちが皆、音楽に興味を持ち始めたのだと思われたようです。「あれはヘッドフォンではなくてイヤーマフラーよ。外寒いでしょう、鈴木先生!」と夫人は鈴木先生の喜びを打ち砕いていました。
夫人は鈴木先生がいそいそと立ち去る姿をみながら「まったくあの人ったら!」と顎が外れそうなほど、大笑いをしていました。
結婚してから、ワルトラウト夫人は1日にキャメルを50〜60本吸う鈴木先生のタバコの煙が充満した部屋で過ごしてきました。「まったく、あの人ったら!」「彼の吸うタバコの煙に殺されるわ」と言っていた鈴木夫人でしたが、やがて2000年に肺気腫で亡くなりました。
鈴木先生は若い時に世界で一番長寿の方の写真を見たそうです。それは片手にタバコを持ったロシア人の写真で、長生きをするには彼もタバコを吸わなければいけないと思ったそうです。それが功を奏したのでしょうか。鈴木先生は生誕100年目で亡くなられています。鈴木先生は新品のとても美しいヴァイオリンケースを贈られましたが、使うことはありませんでした。なぜならそれまで使っていたケースの方がタバコがたくさん入ったからです。
鈴木先生は「タバコを吸う練習をして、より良い教育者になれるように備えれば、タバコを吸う時間もできる」とおっしゃっていました。
鈴木先生のことを深く尊敬していたマージョリー・ヒステクは語っています。「近所の建物の屋根から氷雪が降りつけ、才能教育会館の窓は全部閉まっている寒い日の鈴木先生のスタジオでのヴァイオリンレッスンはいつも気が重かった」と。「鈴木先生の部屋はタバコの煙で充満していたわ。あんなに長生きされたなんて不思議なくらいだわ。そんな部屋でも先生に指導してもらえたのは幸運だった」
たびたび鈴木先生にキャメルのタバコをプレゼントしていた私は、少しばかり罪悪感を覚え、心の中で身悶えしました。
(市村旬子訳 次号に続く)
ロイス・シェパード先生の略歴
ニューサウスウェールズ音楽院及び松本市の才能教育音楽学校を卒業。シドニー交響楽団のメンバーを務める。また、ニューサウスウェールズやヴィクトリアの数々の学校で教鞭をとる。長年、オーストラリア音楽検定委員会の試験官、ヴィクトリア州立大学の幼児教育の学会で講師を務める傍ら、メルボルン大学の音楽院でヴァイオリンとヴィオラを教える。一時期、アメリカの西イリノイ大学のヴィオラ科教授兼スズキ・プログラムの理事を務める。
1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。