オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」日本語訳の連載第6回です。今回は、第5章「思い出」の後半を掲載します。時代を超えた鈴木鎮一先生の姿が活写されています。

先月は、「第5章」の前半を掲載しました。今月は第5章の後半を掲載します。
 

第5章  思い出(後半)

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研究生

 
 鈴木鎮一先生の元へ長期で研修に訪れた人々は、「研究生」と呼ばれていました。コースは基本的に3年間でしたが、どれだけ研究生がそこで勉強するかは、鈴木先生が決めておられました。私たちが子どもたちの演奏をどのように分析し、様々な音楽のスタイルに適した技法をどう発展させることができるかに先生が満足された場合にのみ、卒業が認められたのです。
 
 技術の能力というものについて考えてみるとき、私どもはそこに技術というものの広範囲な分野を思うことができましょう。これをひとことでいえば、技術面での〝表現能力または演奏能力〟という言葉で示すことができるのではないかと思います。
 
 なぜならば、単によく手が動くというだけのことではなく、美しい音形を表現する技術、それに必要な立派な拍子の中で音程正しく表現する能力も、みな技術として考えることができるからです。
 

  先生はいつも、腕、手、指の動きについて、筋肉の動き、腕の重さ、指の重さ、親指の圧力の観点からお話しになりました。これらが、特定の音を出すために必要だからです。先生は、想像的なではなく、純粋に物理的な観点から説明されました。もちろん、先生が教えていたのは成人で、研究生たちはいずれ、子どもたちがわかりやすい言葉に替えて教えなければならないのです。

  先生は、指や親指の圧を必要に応じて変えられるように、弓を強く持ってはならないとおっしゃっていました。生徒が弓を強く持っていると、「ちがいます!それは弓を持っています!」と注意されたものです。
 

押さえてはだめ

 
 先生との個別レッスンはとても短いものでした。20分くらいだったでしょうか。始めに音のレッスンをし、先生のアドバイスを受け、すこし練習します。それからテクニックの稽古をして、みんなそれを残りの1週間で練習してきます。テクニックの練習というのは、しばしば先生の「ニューアイデア」から生まれたものでした。
 

アイ ハブ ニュー アイデア!

 

  直されては弾くことを繰り返し、そして練習してきた曲を弾きます。鈴木先生はどこを直すか決め、技術的な練習法を提案してくださいました。先生は、その曲のどの部分が直すべきところと関係しているか、一切説明されませんでした。それを考えるのは研究生の役目で、どう変えるべきか、次のレッスンの演奏にどう取り入れるかを試行錯誤するのです。

 鈴木先生は「ワン・ポイント・レッスン」を提唱されていました。つまり、生徒にたくさんの情報を与えたり、たくさんの修正を求めて混乱させたりしないということです。腕のいい教師とは、不完全さを理解した上で、修正する部分を一つだけ選び、その修正が他の技術をも整えるようにもっていくのです。実際、鈴木先生は、コースを通じてたくさんの修正点を述べられましたが、それはすべて、同じ一つの到達点を目指したものでした。
 
 娘のキャシーは、研究生として松本に戻りました。彼女が松本に滞在して12ヵ月経った頃、私は鈴木先生から、「キャシーは今すぐ卒業できる」と伝えられました。でも娘と二人で話し合って、「もう1年松本に残ることにしました」とお伝えしました。
 
   彼女の日本人の友人で、ヴァイオリン指導者になるために、すでに7年間も勉強している人がいました。彼女はその後、何年も松本で勉強を続けたそうです。そのように、卒業することが認められない研究生たちもいました。
 
 研究生は自分のレッスンをいつも録音していました。短いレッスンであったにもわらず、後で部屋に戻って録音を聴いてみると、「そんなことをおっしゃっていたのか」と思う時がよくありました。そしてまさにその中に素晴らしいレッスンがあったのです! どんなにがんばっても、生徒はレッスン中のことをいつもすべて記憶することはできないのです。生徒が覚えているのは7割くらいというところでしょうか。

 研究生たちは、私のことを、「キャシーのお母さん」と呼び、私を純粋にお母さんとして見てくれていたと思います。これは私の名前となり、キャシーが卒業して日本を離れた後も、そう呼ばれました。私はみんなのお母さんであり、多くの研究生はよく私のところに悩み事を言いにきたものです。もちろん他の研究生も、みんなキャシーと同じような年頃でした。
 
 鈴木先生は、あるドイツ人研究生のヴァイオリンがあまり質のいいものでないと思っておられました。それをなんとかしようとした先生は、ある日、彼女にこう言われました。
  「これを使いなさい」
 先生が彼女に差しあげたそのヴァイオリンは、先生のご兄弟が作られた大変高価なものでした…。
 
 あるお金に困っていたアメリカ人の研究生が、ヴァイオリンに3本しか弦が張っていない状態でレッスンに現れました。先生は彼に、新しいセットが買えるだけのお金を差し上げました。最終的にこの学生がアメリカに帰らねばならなくなった時、先生は彼のヴァイオリンを法外な値段で買い取り、彼の渡航費を工面してあげたのです。
 
 鈴木先生は、10円玉を入れる小さな貯金箱を持っておられました。その貯金箱は、研究生が、人差し指(1の指)の音程を外した時に科される罰金の10円で一杯になっていました。左手の人差し指は非常に厄介で、1ミリ指がずれただけで音が外れてしまうのです。
 
 この小さな箱はすぐに一杯になりました。そうすればパーティーの時間です。一番罰金が少なかった研究生には、いつもご褒美がありました(当時の為替は1豪ドル400円だったので、10円は2.5セントとなります)。
 
 あまり上手く弾けない、ある外国人の研究生がいました。研究生のコースに入られたのですが、どういうわけか鈴木先生のご指導にも拘わらず、まったく上達しませんでした。毎週月曜のコンサートで彼はいつも最後だったため、先生を除く全員、彼の演奏が始まる前にホールを出て行こうとしたものでした。結局、彼は卒業するには至りませんでした。
(パタソン真理子訳 次号に続く)


ロイス・シェパード先生の略歴

 

 オーストラリアのヴァイオリンとヴィオラの指導者であり、スズキのティーチャートレーナー。スズキ・メソードをヴィクトリア州に紹介し、スズキの協会(現在のスズキ・ミュージック)を設立。
 ニューサウスウェールズ音楽院及び松本市の才能教育音楽学校を卒業。シドニー交響楽団のメンバーを務める。また、ニューサウスウェールズやヴィクトリアの数々の学校で教鞭をとる。長年、オーストラリア音楽検定委員会の試験官、ヴィクトリア州立大学の幼児教育の学会で講師を務める傍ら、メルボルン大学の音楽院でヴァイオリンとヴィオラを教える。一時期、アメリカの西イリノイ大学のヴィオラ科教授兼スズキ・プログラムの理事を務める。
 1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
 ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
 ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。