蔵持典与先生による「鈴木鎮一先生の生涯と才能教育運動の歴史
連載 第4回

 
 関東地区ヴァイオリン科指導者の蔵持典与(くらもち ふみよ)先生の著作「鈴木鎮一先生の生涯と才能教育運動の歴史」の英訳版(翻訳:リリー・セルデン)が、ISA(国際スズキ協会)の公式Webサイトで紹介されました。その様子は、以下の記事でご覧いただけます。
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 マンスリースズキでは、蔵持先生のご快諾をいただき、その著作を日本語で連載していきます。今回は、「第1章 父と母」の3回目です。


 

第1章 父と母 その3

 
ヴァイオリン工場の発展
 
 1904年、日露戦争が始まり、ヴァイオリンは教育的楽器として需要が増し、政吉の工場では、さらにマンドリン、ギターの製作も行なわれ、弦楽器の総合メーカーとして発展して行く。*25
 
 1910年、政吉は、文部省から委嘱を受けて、ロンドンで行なわれていた日英博覧会の見学も兼ねて渡欧した。3月に敦賀港からロンドンに向かい、イギリス、フランス、イタリア、オーストリア、ドイツ、ベルギーを視察後、シベリア経由で8月に帰国したという。*26 政吉はクレモナを訪れた最初の日本人となり、フランスの視察により、帰国後、ニスの改良が実現するのである。*27
 このときに開催されていた日英博覧会では、政吉のヴァイオリンは名誉大賞を受賞して、ロンドンのマードック商会と売買契約を交わすことになる。
 ここで、思わぬ邂逅があった。それは以前政吉のヴァイオリンの推薦状を書いた幸田延との出逢いである。*28 幸田は当時、東京音楽学校のピアノ科教授だったが、1909年に依願休職となり、ちょうど欧州の都市を訪れて研鑽を積んでいた。*29 この交流が、後の鎮一の道程にも関わってくることになるのである。
 
 1917年には「長年にわたり社会に奉仕する活動に顕著な実績を上げた人」に与えられる緑綬褒章を授与された。1919年の『聖代偉績芳鑑』には、「資性温厚(中略)其功績顕著なるを以て、緑綬褒章を賜ひ、其善行を表彰せらる」とある。*30
 

 ここで政吉のヴァイオリン工場の拡大の概要を記しておこう。
 1890年に数人の職人で始まった名古屋の工場は、1897年には50人の職人を抱える規模となり、1903年に名古屋市松山町に工場を広げて行った。
 1904年に日露戦争が勃発し、和楽器の衰退と戦後の好景気の影響も受けて1907年には350人の職人がいたという。1912年明治天皇崩御により諒闇(1年間音曲を演ずることなく喪に服す)により、ヴァイオリンの生産は減衰する。しかしその年政吉は英文カタログを出し、自身の経歴や受賞歴、作品の質の高さなどを記しており、輸出に対する強い意欲が見て取れる。*31
 
 1914年、第1次世界大戦が勃発すると、それまで、ドイツに輸入を頼っていた英国から、次いで米国ほか世界各国から、政吉の工場に注文が相次ぐようになる。政吉は工場を拡大、拡充し、鎮一の記述によれば、最盛期には、行員約1000人、1年間の平均受注は、ヴァイオリン10万丁、弓50万本、駒のみの注文は100万個を超したという。
 鎮一がドイツ留学中に訪れたマルクノイエキルヘンや、チェコ・スロバキアのシェンバッハ、フランスのミルクールでは、最高でも職人の数は7、80人程度だったという。*32
 1926年頃の年間生産額は、ヴァイオリン、マンドリン、ギター、その他の付属品などで、70万円(2019年の貨幣価値で約11億5千万円)、この他家具製造で20万円(同、約3億3千万円)であったとの記載が残っている。*33
 
〈政吉の人物像〉
 

鈴木政吉

 では、政吉はどのような人物であったのだろうか。資料に見られる人物像を、いくつか要約してみよう。

 「発明力に長けて非常に温和、少しも高ぶることなく、丁寧親切な態度で人に接し、謙譲な紳士」*34
 「商道徳を無視したこともなく、極めて正直に、人として歩むべき道を歩み、不撓不屈、あらゆる辛酸に堪えて、段階を踏んで発展した、尊敬に値する人」*35
 「職工に対して慈母のような親切と、厳父のような正しい掟を行ない、他の人には成し得ない、数百の職工を手足のように使うことのできる人」
 「自分の仕事に全力を傾けて、世の中のためになろうとする人」
 「非常に精巧にできた鈴木ヴァイオリンは、職工たちが、賃金のためでなく、自身の誇りによって製作されたもので、その職工たちの境地も、経営者の人格によって自然に導かれたものであろう。」*36
 「商人と見るのは間違いで、卑劣なところがない。事業家と見るのも間違いで、策略がない。発明家と見るのが最も近いだろう。武士気質で堅い正直な人。他人から批評を受けることもなく、恨まれることもなく立派である」*37
 
 鎮一の自伝『歩いて来た道』にも以下のような記載がある。
 「父は、私にいろいろなものを与えてくれましたが、そのなかで、物事へのたゆみない研究心は勿論ですが、もう一つは、すべてについて誠実でなければならないという教訓です」
その生き方を、
 「子供のときから毎日の生活の中で見せられ、教えられてきました。それは86歳で亡くなる頃まで続けられたといってもいいでしょう」
と、鎮一は述べている。*38
 またその性格は、「昔のままの武士気風」であり、日頃から「ぜいたくをするな、無駄をするな」という「頑固一徹な明治の人間」である反面、「きわめて淡々たる」性格で、それを「一番大切な信念として生きていた」という。そして困難にぶつかったときにも、
 「もし間違っても自分の責任でやるのだからいいではないか、といった筋金の入った生き方であったことに感心した」
と、鎮一は述懐している。鎮一は、
 「私が父を尊敬する第一のものは、研究心と誠実という教え、それとその実践であった」と、締めくくっている。*39
 


*25.鈴木バイオリン製造株式会社ホームページ「鈴木政吉物語」 https://www.suzukiviolin.co.jp
*26.前掲書『日本のヴァイオリン王-鈴木政吉の生涯と幻の名器』 p.98-100
*27.前掲書『室内楽』 p.111
*28.前掲書『日本のヴァイオリン王-鈴木政吉の生涯と幻の名器』 p.100-101
*29.『幸田姉妹-洋楽黎明期を支えた幸田延と安藤幸』 萩谷由喜子 (2003) 株式会社ショパン
*30.『聖代偉績芳鑑』 (1919) 聖代偉績芳鑑編纂局関西支部
*31.前掲書『日本のヴァイオリン王-鈴木政吉の生涯と幻の名器』 p.60, 122, 124
*32.前掲書『室内楽』 p.105, 111-113
*33.前掲書『中京実業家出世物語』 p.90
*34.『名古屋百人物評論』 手島益雄 (1915) 中京堂 p.118
*35.前掲書『日本のヴァイオリン王-鈴木政吉の生涯と幻の名器』 p.11
*36.『名古屋の第一流』 小山田斬馬剣 (1918) 東花書院 p.14-16, 21-22
*37.『名古屋新百人物』 馬場籍夫 (1921) 珊瑚社 p.18-19
*38.前掲書『歩いて来た道』 p.36-38
*39.前掲書『歩いて来た道』 p.13, 37-40


蔵持典与先生の略歴

 

 9歳から故、田沢毅氏にヴァイオリン指導を受ける。13歳から鈴木鎮一氏のプライベートクラスに在籍し、1964年第1回海外演奏旅行(テンチルドレンツアー)の一員として鈴木夫妻とともに渡米。早稲田大学在学中に同氏から直接スズキ・メソードの指導者認定を授与され、卒業後東京で指導を開始。1975年渡仏し、ジャン=ジャック・カントロフ氏の下で学ぶ。1977年帰国後、国内外の国際アカデミーで研鑽を積み、その後、江藤俊哉、豊田耕兒各氏に師事。1985年日本演奏連盟主催「えんれんコンサート」を経て、室内楽奏者としての活動を開始。同連盟の20周年記念フェスティバルに出演。現在スズキ・メソード指導者およびティーチャートレーナー、国際スズキ協会(ISA)ヴァイオリン科委員。