鈴木裕子先生への追悼メッセージ

 

 前号では、ご遺族を代表して、お嬢様で関東地区ピアノ科指導者の石川咲子先生から思い出を寄せていただきました。多くの反響がありましたことを、石川先生から伺っております。

 →石川咲子先生による「母との思い出の数々」
 
 その後、国内外より、亡くなられた鈴木裕子前会長への追悼メッセージと在りし日のお姿の写真が、編集部に多数寄せられています。国際スズキ協会の議長としても活躍された裕子先生、また、オーストラリアに毎年のように通われた裕子先生を慕って、オーストラリアの先生たちからも多くのメッセージをいただきました。英語で寄せていただいた方には、日本語も併記して、お届けします。
 お名前をクリックすると、そのメッセージを直接ご覧いただけます。
 早野龍五様(公益社団法人才能教育研究会会長)
 ポール・ランデフェルド様(国際スズキ協会元CEO)
 ハウカー・ハンネソン様(国際スズキ協会前CEO)
 ブライアン・ルイス様(ヴァイオリニスト)
 モーシーン・ケリー・キーシング様(メルボルン・ヴァイオリン科指導者)
 後藤晴生様(シドニー・ヴァイオリン科指導者)
 ルース・ミウラ様(バルセロナ・ピアノ科指導者)
 正岡紘子様(関東地区ヴァイオリン科指導者)
 宮坂勝之様(聖路加国際大学名誉教授)
 土居孝信様(スズキ・メソード幼児教育研究会会長)


引き継いだ宿題があります

早野龍五
公益社団法人 才能教育研究会  会長
 
 今年の8月13日に、才能教育研究会の前会長 鈴木裕子先生がお亡くなりになりました。享年80歳でした。
 

 鈴木裕子先生は、2013年から2016年まで、公益社団法人才能教育研究会第4代会長、そして2020年からはISA(国際スズキ協会)の名誉会長を務められるとともに、ISAのヴィオラ科の委員、松本の白百合幼稚園の理事、さらには園長など、スズキに関わる要職を歴任されました。また、2019年には松本市芸術文化祭実行委員会会長として、鈴木鎮一生誕120周年の「音にいのちあり」の公演にご尽力されたことも記憶に新しいところです。
 

第16回世界大会で、基調講演をされる早野龍五会長(2013年)

 私が鈴木裕子先生と親しくさせていただくようになったのは、2013年に松本でスズキ・メソードの世界大会が開催され、私が基調講演者として招かれた頃からだったと思います。その後、裕子先生は私をスズキのOB・OG会の理事に推薦してくださり、ほどなくして、お茶の水の中華料理屋さんで、私に「才能教育の理事になりませんか」とお誘いくださいました。

 そのお話をいただいた時、私は現役の東大教授でしたし、スズキを離れて物理の世界に進んでから半世紀近くも経っていましたから、「無理です」と固辞申し上げたのですが、裕子先生は大変に穏やかな口調で、「龍五ちゃんもおじちゃま(=鎮一先生)の薫陶を受けているのだから…」と仰いました。「恩返ししなさい」ということだと理解し、お引き受けしたのですが、まさか、私が裕子先生の後の会長になるなどということは、その時はまったく想像できませんでした。
 
 私が会長を引き継いだ後も、鈴木裕子先生からは、たびたびお電話をいただき、スズキの様々なことについて話を伺いました。話題の一つに「鈴木鎮一先生の国際的な知的財産」というものがあります。国際スズキ協会や外国の出版社が絡む難しい問題ですが、私が鈴木裕子前会長から引き継いだ宿題ですので、何とか全貌を明らかにせねばと思っているところです。
 
 鈴木裕子先生は今年の春から代教の申請書(他の先生にレッスンを代わっていただく手続き)を出しておられました。私は会長として申請を決裁をする立場にありますので、書類を拝見し、体調を崩しておられるのだろうと推察はしていましたが、これほど急なこととは存じませんでした。本当に残念なことです。鈴木裕子先生のスズキ・メソードへの貢献を讃え、感謝とともにご冥福をお祈りいたします。


鈴木裕子さんを偲ぶ

ポール・ランデフェルド
国際スズキ協会 元CEO

撮影:ポール・ランデフェルド

 鈴木裕子さんとは、何度かお会いする機会がありました。最初にお会いしたのは、1980年から1981年にかけて、私が日本に滞在し、鈴木先生のもとで勉強していた時でした。私が研究生として参加した「全国指導者研究会」に彼女が参加していたことを覚えています。確か、松本で行なわれた鈴木先生の88歳の誕生日会でもお会いしました。1999年には、第13回スズキ・メソード世界大会で再会しました。この大会で、私たちは子どもたちのグループレッスンをいくつか教えるためにペアを組みました。私は彼女の指導を見て、音の出し方を徹底的に理解されていることに感動しました。まるで鈴木先生が目の前にいらっしゃるかのようでした。また、彼女の子どもたちに対する経験と忍耐力にも目を見張るものがありました。その忍耐力は、チーム・ティーチャーである私にも及んでいて、何度か私が授業時間を独占してしまったことがありましたが、この点でも彼女はとても寛大でした。
 
 その後の世界大会や指導者研究会でも、私たちは出会い、時には一緒に教えることもありました。まさに、運命的なことでした。
 
 2002年、私が国際スズキ協会(ISA)に関わり始め、最終的にCEOになった頃、鈴木裕子さんはISAの議長としての任期を終えようとしていました。その時、スズキ・メソードへの参加を熱望しているアジアの国々のためのスズキ協会の設立に、彼女が大きく関わっていることを知りました。彼女の叔父である鈴木鎮一先生への献身を通して、彼の卓越した基準、そして世界の子どもたちに教育を与えたいという願いは、ISA理事会のメンバー全員に周知されていました。
 
 2009年にボストンで開催されたスズキ・ティーチャー・トレーナー・カンファレンスでの彼女の写真は、私がISAのCEOを務めていた時に撮影したものです。会議に参加した後、ホテルのロビーでくつろいでいた彼女。時差ぼけでかなり疲れているにもかかわらず、彼女らしい笑顔と優しい眼差しで迎えてくれました。彼女のことを知っているすべての人が、彼女がいなくなってしまうことを寂しく思っています。
 

REMEMBERING HIROKO SUZUKI

Paul Landefeld 
ISA-CEO, Retired

Paul is on the left.

 I had the pleasure of meeting Hiroko Suzuki on a number of occasions. I first met her in 1980-1981when I lived and studied in Japan with Dr. Suzuki. I recall her participation in the All Japan Suzuki Teachers Conference which I attended as a kenkyusei. As I recall we also met at a birthday party in Matsumoto celebrating Dr. Suzuki‘s 88th birthday. Again, we met in 1999 at the 13th Suzuki Method World Convention in Japan. At this convention we were paired together for teaching several children’s group classes. As I observed her teaching I was impressed by her thorough understanding of tone production. It was almost like having Dr. Suzuki himself standing in front of me. Additionally, her experience and patience with children was quite notable. Her kind patience was also extended to me as a team teacher since on several occasions I monopolized too much of the class time. She was very gracious in this regard.

 As fate would have it and to my delight there were subsequent World Conventions and Teacher Conferences where we met and sometimes taught together.
 
 In 2002, at the time I was becoming involved with the ISA to eventually become the CEO, Hiroko Suzuki was concluding her term as ISA Chairperson. It was then that I learned of her considerable involvement in assisting the development of a Suzuki Association for the countries in Asia that were eager to expand their participation in Suzuki Method. In her role as ISA Board Chair her devotion to her uncle Shinichi, his standard of excellence and his desire to educate the children of the world was obvious to all ISA board members.
 
 The photo shown of her at the 2009 Suzuki Teacher Trainer Conference in Boston is one I took while I was CEO of the ISA. Hiroko was relaxing in the hotel lobby after arriving at the conference. Even though she was quite tired and suffering from jet lag she managed to produce that welcoming smile and gentle twinkle of eye that was so typical of her gracious personality. She certainly will be missed by all who knew her. 


彼女の遺産は生き続けます

ハウカー・F・ハンネソン博士
国際スズキ協会前会長
欧州スズキ協会前会長・前名誉会長
 
 私は、国際スズキ協会の理事会で、鈴木裕子さんと何年か一緒に仕事をしました。 彼女の印象に残っているのは、スズキ・メソードと彼女の叔父である鈴木鎮一先生の遺志を継ぐことに対する使命感です。 彼女は仕事の中で、国際的にも日本国内でも、スズキ・メソードのさまざまな主催者や実践者との協力関係を常に模索していました。 日本で行なわれているスズキ・メソードの世界での活動に対する彼女の献身的なお姿は、ISAの理事会メンバーの間でも常に明らかであり、その献身と集中力は記憶に残ることでしょう。 彼女のご家族とお仲間の皆様に、心からお悔やみを申し上げます。 その足跡を埋めるのは難しいでしょうが、彼女の遺産は生き続けています。
 

Her legacy lives on.

Dr. Haukur F. Hannesson
Former Chair of the International Suzuki Association
Former Chair and former Hon President of the European Suzuki Association
 

 I worked with Hiroko Suzuki on the Board of Directors of the International Suzuki Association for a number of years.  What I remember about Hiroko was her great sense of duty towards the Suzuki Method and the legacy of her uncle Dr. Shinichi Suzuki.  In her work she always endeavoured to seek co-operation with the different organisers and practitioners of the Suzuki Method, both internationally and in Japan.  Her dedication to the work being done in Japan within the Suzuki world was always clear to her fellow ISA board members and she will be remembered for this dedication and focus.  I would like to send my deepest condolences to her family and to her colleagues.  Her shoes will be difficult to fill and her legacy lives on.


指導者であり、教育者であり、そして友人の裕子先生を偲びます

ブライン・ルイス
ヴァイオリニスト
 

左は、オーストラリアのトレーシー・リンチ先生
中央がブライアン・ルイス先生

 裕子先生がお亡くなりになられたというお知らせを聞いて、とても悲しい気持ちになりました。 裕子先生は、音楽への愛と、生徒や友人への思いやりに満ちた才能豊かな先生でした。私が彼女の才能豊かな娘さんと一緒に演奏していた時に彼女が参加したコンサートや、オーストラリアでの会議で彼女のトナリゼーションのクラスに参加したことなど、たくさんの楽しい思い出があります。 私は一日の授業を始める前に、彼女のクラスを見学に行きました。 先生とのやりとりを聞いていて、特に鈴木鎮一先生のヴァイオリンで演奏しているのを見て感動しました。彼女は快く、参加者の一人ひとりに愛用の楽器でトナリゼーションを弾かせてくださいました。 これにより、素晴らしい共有環境が生まれ、心に残る思い出を作ることができました。 教授会のパーティでは、彼女が私にヴァイオリンを渡してくださり、私はこの特別な楽器で1時間以上も練習しました。 彼女の寛大さと優しさは、いつまでも忘れられません。
 
 裕子先生を友人として、同僚として迎えられたことを幸運に思います。 亡くなられたことは大変悲しいことですが、彼女の精神は、彼女の存在によって祝福された生徒や先生たちが奏でる一音一音の中に生き続けるでしょう。
 

Remembering Hiroko Sensei – Teacher, Pedagogue, and Friend

Brian Lewis
violinist
 

Sydney National Conference (April.2015)photo by Barry O’Hagan


 It was with deep sadness that I heard the news that Hiroko Sensei has passed away.  Hiroko was a gifted teacher whose heart was filled with love for music and great caring for her students and friends. I have many fond memories - from the concerts she attended when I was performing with her talented daughter, to attending her tonalization class at the conference in Australia.  Before I began my teaching day, I would go observe her class.  It was wonderful to hear her work with the teachers, and I was particularly moved by the fact that she was playing on Suzuki Sensei’s violin. She graciously let each of the participants play tonalization on his beloved instrument.  This created a wonderful environment of sharing and creating lasting memories.  At a faculty party, she gave me the violin to play on, and I went and practiced on this special instrument for more than an hour.  Her generosity and kindness to me will always be remembered. 
 
 I am lucky to have had Hiroko Sensei as a friend and colleague.  She will be greatly missed, but her spirit will live on with each note played by those students and teachers who were blessed by her presence.

メルボルンでの裕子先生の思い出

モーシーン・ケリー・キーシング
オーストラリア(メルボルン)ヴァイオリン科指導者
(メルボルンのすべてのスズキの指導者を代表して)
翻訳:水島真美
  

裕子先生とオーストラリアの先生たち。
右端が、モーシーン先生

 メルボルンでは、スズキのヴァイオリン指導者の間で、私たちだけに通じるある「時」の呼び名があります。私たちは時期を分けて「裕子先生以前」と「裕子先生以後」と呼んでいますが、それは裕子先生が私たちの指導や人生に与えた影響がいかに大きかったを示すものです。裕子先生以前は、スズキ・メソードの理解は「本で学んだ通り」、というレベルのものでしたが、裕子先生がメルボルンにおいでになって以来、そのお人柄を通してじかに体験させていただいたことによって、スズキの理念を学ばせていただきました。メルボルンの指導者たちは皆、親しみを込めて「ヒロコセンセイ」と呼ばせていただいていました。
 
 「一緒に勉強しましょう」というのが裕子先生の口癖でした。鈴木先生の幼児に対する考え方、スズキ・メソードとその理念、音のこと、人間性など、裕子先生がその人生をかけて蓄積した膨大な知識でありますが、それを「共に深く追求して勉強しましょう」と私たちを招いてくださったのです。しかも、この招待状は謙虚さに包まれていて、私たちがこの尊敬すべき人である彼女と同じ地位にいると安心させてくださいました。誰もが、裕子先生に大切にされていることを感じていましたし、先生は私たちがスズキ・メソードについて話すことに純粋に興味を持っていらっしゃいました。「一緒に勉強しましょう」は英語ではLet’s study together で、三語です。このたった三つの言葉で、私たちの不安や不適格感、エゴを解消し、スズキの指導者になった真の理由である、生命(いのち)あるものの中にある崇高な精神を育み、この世界をより良い場所にすることへと私たちを導いてくれました。その演奏、鈴木鎮一先生と夏を過ごした経験についての話、マナー、そして指導を通して、裕子先生はスズキ・メソード、特にスズキの理念に命を吹き込んでくださいました。
 

笑顔の素敵な裕子先生

 私たちの誰に聞いても、同じことを言うでしょう。"裕子先生はいつも笑顔で、みんなに会うことを喜びとしてくださっていた "と。先生の回りからは喜びが溢れておりましたが、それは決して作り事や偽物ではなく、裕子先生のお人柄の中から自然と出てきたものでした。「裕子先生が喜びに溢れているのを見て、私も何かしたいと思った」「裕子先生の目はいつも微笑んでいた」と、私たちは何度も口にします。彼女は私たちのコミュニティ全体を持ち上げ、私たちにもっと頑張ろう、もっと良くなろうという気持ちを起こさせてくれました。興味深いことに、それが面倒な作業だと感じたことは一度もありませんでした。むしろ、その逆で、とても簡単だったのです。

 「エレガント」、「遊び心」、「親しみやすい」、「平等主義」、「謙虚」、「笑顔が絶えない」、「献身的」など、鈴木裕子先生を表す言葉が迷わず頭に浮かんできました。夜遅くまで起きていらして、早起きされ、ビールとジャガイモとイタリア料理とラベンダーの蜂蜜が大好きだった先生。私の主人の自家製ビールを飲むと、「松本にビアガーデンを作ってくれたら、一年中あなたのビールを飲めるわ」と嬉しそうにおっしゃっていました。
 
 裕子先生は、特別な宿泊施設を利用されたわけではなく、メルボルンにおいでになるとほとんど毎回、スズキの父兄である大橋家小さな一部屋にお泊まりになっていらっしゃいました。その家に他の先生方を同時に受け入れることもよくありました。大橋さんからこう聞きました「こんな特別な先生には小さな我が家は十分ではないと思っていましたが、裕子先生は毎年泊まってくださったので、お気になさらなかったということでしょうね。お泊まりの間に見た裕子先生の朝の顔と帰りの顔は全然違っていました。朝は、限られた時間の中で、どうすれば先生方にメッセージを伝えられるかを考えていらっしゃる様子が見られました。夜はリラックスされて私たちと打ち解けて食卓を囲まれ、子どもたちの上達をいつも愛情たっぷりに祝ってくださいました」
 
 毎年、裕子先生は「ぜひ松本に来てください」とおっしゃい、満面の笑みで「待っています」と言ってくださいました。そして、裕子先生のおっしゃる通り毎年、メルボルンの指導者、生徒、親たちは、大小のグループで松本を訪れ、私たちは世界中の他の都市や国の先生たちに伝えました。私たちにとってそれは、鈴木先生の家を訪れ、周りの山々を見て、新旧の先生方に会い、友人を作り、サマースクールや世界大会の環境に浸り、そしてもちろん裕子先生に再会する、巡礼のようなものでした。また、松本やオーストラリアで出会った素晴らしい指導者の皆様やご家族と旧交を温めることも楽しみの一つでした。松本では、裕子先生が指導者として、またホストとして貴重な時間を割いて、私たちと生徒たちを歓迎してくださったことを嬉しく思いました。
 
 メルボルンでは、裕子先生のヴァイオリン指導者研究会に加えて、シドニーの後藤晴生先生が裕子先生の通訳を例年のようにしてださったことはも特別に素晴らしいことでした。息のあった両先生の関係は、ユーモアにあふれた軽快な雰囲気を醸し出し、私たちの気分をさらに高揚させてくれました。その後、後藤先生が他のクラスがあるため通訳できない時には、ゴールドコースト在住のスズキの先生、結城幸恵先生が遠慮気味ながらも代わりを引き受けてくださいました。幸恵先生は自分の英語力を謙遜されながらのピンチヒッターの通訳でしたが、裕子先生のメッセージの素晴らしさはしっかりと伝わり、毎回のクラスを盛り上げることに貢献してくださった先生方の通訳に感謝しています。裕子先生のヴァイオリンのクラスや講義では、たくさんのバイリンガルの先生やその配偶者たち、そして保護者の方々が翻訳や通訳を手伝ってくれました。このようなチームワークは何年も続いたのです。
 
 来豪中に裕子先生が関わりを持たれたのは、ヴァイオリンの先生や生徒だけではありませんでした。あらゆる楽器の先生方にも声をかけてくださり、鈴木先生の哲学や思い出を語ってくださいました。夏休みのレッスンの話や、グループレッスン室の外で履き替えた靴を揃えていた思い出など、「子どもの中に高貴な心を育てるためには、美しい音色が必要である」という鈴木先生の信念を、独自の視点で伝えてくださいました。私たちは、これらの講義の中のお話が深遠で示唆に富むものであることを知り、裕子先生のお人柄の中にその哲学を言葉と行動で見せていただけたと感じました。
 

グループレッスンをされる裕子先生

 2004年から2018年までの11年間、メルボルンでの毎日は裕子先生が教えてくださったトナリゼーションで始まりました。裕子先生は、鈴木先生のもとで学ばれたエクササイズを私たちに教えてくださいましたが、また同時に挑むべき課題も与えてくださいました。より良きバランスによる少ない肉体的努力でより一層鳴る音が出るように、より少なき思考とより多き直観、より少なき筋力とより多き内面的な強さを、これらを追求するように与えてくださいました。より少なき肉体的努力、といっても私たちが努力をしなかったわけではありません。実際、どのクラスも最初は緊張を強いられましたが、数分のうちに皆、深く没頭して誰も裕子先生のお言葉と音以外のことを考えていませんでした。先生は毎年、私たちのグループの音色を覚えておられ、成長も停滞も先生の目には明らかでした。「このトナリゼーションのエクササイズを覚えている?練習した?」 そのおかげで、先生が「上達したわね!」と言ってくださった年は、努力が報われ、嬉しかったです。私たちはホッと一息ついて成功を祝い、さらに研鑽を積もうという気持ちになりました。このセッションはメルボルンでも有名になり、他の楽器の先生方も彼女の口調や言葉からスズキスピリットを感じ取ろう、と参加されるようになりました。

 私たちが覚えているのは、裕子先生が鈴木鎮一先生のヴァイオリンを持って来てくださり、私たちに弾かせてくださったことです。私たちは、『ユダス・マカベウス』の「合唱」の最初のフレーズを一人ずつ演奏しました。それは非常に特別な経験でしたが、同時に感情的には非常に難しいことでもありました。そのヴァイオリンには、鈴木鎮一先生とともに過ごした多くの思い出が秘められており、鈴木鎮一先生ご本人が触れられた楽器だからです。
 

モーシーン先生の原稿を翻訳された真美さんと。
チェロ科の水島隆郎先生の奥様です

 毎年、一緒に集まることは感動的な体験でした。メルボルンのヴァイオリン科の指導者は、裕子先生がおいでになった時にしか会わないことが多いので、私たちにとっては、裕子先生が私たちを一つにしてくださったような特別なイベントでした。4、5日の大会の間に、私たちの音が上達していくのがわかり、最終日には誰しも終わりたくないという気持ちになっていました。最後のクラスでは音が良くなったことを確認するためにいつも、『ユダス・マカベウス』の三部合奏や、ヴィヴァルディの協奏曲イ短調の緩徐楽章を演奏しました。私たちの音色が部屋に響き渡り、建物の木の梁が足元で振動しているのを感じたのを覚えています。この瞬間、私たちは喜びのあまり泣かずにはいられませんでした。私たちが経験したばかりのことと、それを再び経験するためにもう一年待たなければならないという辛さのために、全員、涙を抑えられませんでした。

 私たちは、裕子先生が叔父である鈴木鎮一先生のメッセージを私たちに伝えたいと強く思っていらっしゃったように、私たちも裕子先生のメッセージを伝える義務があると思っています。私たちは、あらゆる場所に裕子先生を見、感じて、聞くことができます。すべての笑顔、すべての喜びの瞬間、私たちが作り上げる生徒たちとの関係の中に、私たちの苦悩と勝利の中に、そして何よりも、私たちの心の中に、裕子先生は永遠に存在し続けられます。

 

Melbourne Memories of Hiroko Sensei 

Moirsheen Kelly-Keesing, Melbourne, Australia
written on behalf of all the Melbourne Suzuki teachers
 

 In Melbourne, amongst Suzuki violin teachers, we have a special measure of time; we call it ‘before Hiroko sensei and after Hiroko sensei,’ such was the impact she had on our teaching and our lives. Before Hiroko sensei we understood Suzuki Method on paper, but after her visits to Melbourne we came to know Suzukiphilosophy through the personality of Mrs Suzuki, whom we affectionately called ‘Hiroko sensei.’ 
 

Hiroko-sensei and Rosalie grining

  “Let’s study together” were the words we heard her say so often. She invited us to dive in and study the vast knowledge which she accumulated over her life, to discover more about Dr Suzuki’s approach to young children, Suzuki Method and philosophy, tone, and humanity. Yet somehow this invitation was cloaked inhumility, assuring us we had the same stature as her, this esteemed person - though of course, none of us ever believed it. Everyone had the sense that she valued them, and that she was genuinely interested in what we had to say about Suzuki Method. With those three words, “Let’s study together,” she disarmed our fears, our feelings of inadequacy, our egos, and directed us to the one true reason for becoming Suzuki teachers – making this world a better place by nurturing the noble spirit within every living being. Through her playing, her stories about her experiences spending summers with Dr Suzuki, her manner, and through her teaching she broughtSuzuki Method and in particular Suzuki philosophy to life.  

 If you asked any of us, we would all say the same thing, “she was always smiling and she was happy to see everyone.” She radiated happiness, but it was never false or fake, it came from within her. “Her happiness inspired me to do things,” and “her eyes were always smiling” are comments we make over and over. She lifted our entire community and inspired us to do better and to be better. Funnily, it never felt like a chore; in fact, it was the opposite – so easy! 
 
“Elegant,” “playful,” “accessible,” “egalitarian,” “humble,” “full of smiles,” “devoted,” were descriptions of Mrs Suzuki which came to our minds without hesitation. She stayed up late and rose early, and loved beer, potatoes, Italian food, and lavender honey. When she enjoyed a glass of my husband’s home brewed beer, she declaredcheerfully that he must open a beer garden in Matsumoto so she could taste his beer year-round.  
 
 Hiroko sensei did not have any special accommodation on her visits. She had a small room with the Ohashi family for most of her years in Melbourne, and often they hosted other teachers at the same time in their small home. Mrs Ohashi said, “We knew it was not good enough for someone this special, but somehow it was ok because she returned year after year. Her morning face was totally different from her face coming home at the end of the day. In the morning I could see her thinking about how she could best give her message to the teachers with the limited time she had. At night she was relaxed and very open around our dinner table, and she always celebrated our children’s achievements with a lot of love and care. 
 
  Every year Mrs Suzuki said, “Please come to Matsumoto,” and with a big smile added, “I’m waiting.” And so, we did. Year after year Melbourne teachers, students and parents came to Matsumoto in groups large and small to follow her recommendation – and we told other teachers in other cities and countries around the world. To us it was like a pilgrimage visiting the home of Dr Suzuki, seeing the mountains around us, meeting teachers old and new, making friends, soaking up the environment of Summer School and the World Convention, and of course seeing Mrs Suzuki again. Over time we looked forward to renewing old acquaintances with other great teachers and families who we met both in Matsumoto and in Australia. While in Matsumoto we were delighted that Mrs Suzuki welcomed us and our students giving us her precious time as a teacher and a host.  

 

Hiroko-sensei and Georgina horizontal Bows no middle finger

In Melbourne, our violin teacher training sessions with Hiroko sensei had a doubly special attribute in that Sydney Suzuki teacher Haruo Goto translated for Mrs Suzuki most years. The relationship between them made for a humorous and light hearted ambiance which lifted our spirits even further. Years later if Haruo was busy teaching another class, Gold Coast based Suzuki teacher Sachie Yuki stepped in, although reluctantly. Despite Sachie complaining about her own English, Mrs Suzuki’s message came shining through and we were always grateful to all of them for adding to every class. In her student classes and lectures scores of bi-lingual teachers, partners of teachers, and parents helped with translations. It was truly a team effort that lasted many years.  

 

Hiroko-sensei and Michelle

During her visits Mrs Suzuki was not confined to working with the violin teachers and students. She also addressed the Suzuki teachers of all instruments who came together to hear her reflections on Suzuki philosophy and her recollections of her time with Dr Suzuki. Whether it was stories of her summer lessons or her memories of straightening shoes outside the group lesson room, she brought to life the conviction of Dr Suzuki that beautiful tone was essential in developing the noble spirit within each child, sharing his philosophy through her unique perspective. We found these lectures to be profound and thought provoking and in Mrs Suzuki we felt we saw that philosophy in word and in deed.  

 

Hiroko-sensei and Emily

  For 11 years spanning 2004 to 2018 every day in Melbourne started with Hiroko sensei leading a session ontonalisation. She gave us the exercises she studied with Dr Suzuki, all the while challenging us to create more resonance through better balance and less physical effort; less thinking and more intuition, less muscle strength and more inner strength. This did not mean we did not work hard. In fact, the start of every class had us all on edge, but within minutes we were so deep in our work that no one had anything else on their minds but her words and her sound. Year after year she remembered our group tone, and noticed our development or stagnation. “Did you remember this tonalisation exercise? Did you practice?” It made the year she announced, “You have improved!” all that much sweeter. We breathed with relief and celebrated our success, being even more inspired to continue studying. These sessions became quite famous in Melbourne and teachers of other instruments attend to catch the Suzuki spirit in her tone and words.  
 
 We remember when she brought Dr Suzuki’s violin for us to play on. One by one we played the first phrase of ‘Chorus’ from Judas Maccabaeus. It was an incredibly special experience, yet emotionally extraordinarily difficult to play on that particular violin which had seen so much and been touched by Dr Suzuki so many times. 
 

Hiroko-sensei and Kim at dinner

  Each year was an emotional experience coming together. Often violin teachers in Melbourne only saw each other when Hiroko sensei came, so for us it was a special event as if she brought us together. We could hear the development in our tone over the four or five days of our conference and there was a palpable sense on the last day of not wanting to finish. Our final class always ended with a demonstration of the improvement in our tone by playing Chorus from Judas Maccabaeus in three parts or the slow movement of the Vivaldi Concerto in A minor. We could feel the room resonate with our tone and I remember feeling the wooden beams in the building vibrate underneath my feet. We could not help but weep with joy in these moments, all of us sobbing,both over the experience we just had, and the pain of having to wait until another year passed to experience it again.  

 We know that we now have an obligation to pass on her message just as she felt so passionately about passing her uncle’s message to us. We will see, feel, and hear Hiroko sensei everywhere, in every smile, in every joyful moment, in the relationships we create with our students, in our struggles and in our triumphs, but mostly she will remain forever in our hearts. 


人として、大好きでした

後藤晴生
オーストラリア(シドニー)ヴァイオリン科指導者
  

 裕子先生がお亡くなりになったことを聞いた時、自分の呼吸も心臓も止まったかのような感覚と、ショックで言葉にならないけど、重く沈んだ心持ちの自分でした。
 
 裕子先生のことを、家族や共通の知人、指導者仲間で話すごとに、胸がいっぱいになり、止め度もなく涙が流れる自分です。今でも、“あら晴生くん、お元気?“と裕子先生の満面の笑顔とともに声が聞こえるようです。
 
 裕子先生との出会いは、大好きな鈴木静子先生の娘さんの裕子先生、としてでした。笑顔が素敵で優しい、和みのある空気、直感的に大好きになりました。鈴木鎮一先生、鈴木静子先生、山村晶一先生、皆に共通することですが、直感的に大好きです。理由や理屈は浮かびません。人として、大好き。
 
 2004年から2018年まで、ほぼ毎年オーストラリア(メルボルン)に来てくださったことは、今となっては、ありがたく、奇跡のように感じます。メルボルンでのフェステイバルは、日本で言うなら秋期学校、延べ5日間ほどの大会で、初めの2日間は、指導者のみの研究会。後の3日間は、日本の夏期学校のようなプログラムです。この年一度の秋期学校が、子どもの頃の松本の夏期学校のように思われました。
 

後藤晴生先生と裕子先生

 夏期学校は、1年の中の一大行事でした。大好きな鈴木鎮一先生に会いに行く、鎮一先生に会うのが嬉しくて、午後の合奏レッスンで先生が舞台に出てこられると、松本の市民会館全体が、明るくなって、舞台の上の我々子供たちは、ギラギラの目とニコニコの笑顔、何を弾いても、何をやっても、楽しくて嬉しくて、夏期学校終わると寂しくて、悲しくて。でも、また来年!その余韻が次の年まで続く。2003年までのメルボルンのフェスティバルには、毎年違った招待講師の方がいらっしゃっていました。メルボルンの先生たちから、“来年は(2004年)日本から先生を招きたいが、誰がいいか?”と質問を受け、“鈴木裕子先生は?”と言った記憶があります。2004年以降、メルボルンの先生方の強い希望で、できる限りほぼ毎年、裕子先生のメルボルンが可能になったと思います。

 “繰り返し” によって一度の素晴らしい思い出ではなく、“環境”が生まれます。毎年一度、裕子先生が来てくださる“環境”。裕子先生は、“私は、私のできる限り、鈴木鎮一先生の世界、思想を伝えたい!”といつも仰っていました。そして、我々に対しては、いつも、“一緒に学びましょう”でした。自分は、裕子先生の通訳をさせていただく大役を、ほぼ毎年、緊張しながらも楽しませていただきました。裕子先生とオーストラリアの指導者、生徒や家族の関係は、とても特別なものだったと思います。特に指導者にとって、裕子先生は“スズキの母“でした。尊敬、信頼、友情、愛情に満ちた、素晴らしい関係だったと思います。裕子先生の飾らずもチャーミングなお人柄、誰とでも分け隔てなく誠意のこもった対応、裕子先生の笑顔が、言動が、周りにいる皆を幸せにしました。我々、オーストラリアの指導者は、裕子先生の中に真のスズキの思想や精神を感じました。
 
 裕子先生の音は、優しく、深く、愛に満ちた音。美しき音、美しき心、そのものでした。
 日本から来た先生だから、とか、鎮一先生の姪御さんだから凄い、尊敬しなきゃではなく、一人の人間として、裕子先生ご自身の言動そのものが、“愛深ければ、なすこと多し”でした。
 
 毎年、フェスティバルの終わりには、“皆さん、ありがとうございました”という裕子先生のお声と、ニコニコながらも涙の溢れる皆の顔。深い感動でした。そして、また来年との思いと期待で、指導者も生徒も家族もがんばる。自分の若かった頃の松本の夏期学校そのものでした。
 
 裕子先生のメルボルン滞在中、大橋家が我々を泊めてくださいました。大好きな裕子先生のいらっしゃる秋期学校だけの時間ではなく、朝から寝るまで、毎日が合宿のようでした。朝の順番待ちのシャワー、大橋家の娘さん2人も含めた、朝食前の各々の音出し。午後、会場から戻る車の中での、ぺちゃくちゃ話。夕食前、食卓の椅子の上に正座されて、まずビール!これで、ジャガイモがあれば何もいらない(笑)。
 
 ある日、お世話になっている大橋さんへ何かと思い、肉じゃがを作りました。裕子先生がキッチンに来られて、“晴生くん、何作ってんの?” “肉じゃが?” “お肉、三枚肉じゃないわよね!私、あれダメなのよ!” ほのぼのと笑いの溢れる一コマ。
 
 大好きな山村先生、鎮一先生、お亡くなりになったけど、自分の心の中に毎日、いらっしゃいます。裕子先生もそこに行かれました。我々がスズキの指導者としてだけでなく、人として歩むべき道を示していてくださいます。より愛に満ちた、美しい生き方の道。生涯終わりのない道、これからも、ご指導、よろしくお願いします。
 
 

I loved her smile, gentleness and warmth.

Haruo Goto, Sydney, Australia   

 
  Unexpected news of Hiroko sensei’s passing shocked me so much that I felt my heart and breathing had stopped. No words could explain my utterly heavy and sad emotion.
 
  As I talked about Hiroko sensei with my family, friends and fellow teachers, I became so overwhelmed and burst into tears. I can still hear Hiroko sensei’s happy voice so clearly saying “Hello Haruo! How are you?” with a lovely smiling face.
 
  I met Hiroko sensei as the daughter of my favourite piano teacher, Mrs Shizuko Suzuki. I immediately and intuitively liked Hiroko sensei. I loved her smile, gentleness and warmth.
 
  I loved Hiroko sensei in the same way as how I loved Dr. Suzuki, Mrs. Shizuko Suzuki and my own teacher, Mr. Shoichi Yamamura. I have no particular reason, but I was attracted to these people’s humanity and love.
 
  From 2004 to 2018, Hiroko sensei visited Australia almost every year and that was an amazing blessing to us all. Each April Hiroko sensei would join us for the annual Suzuki Music festival in Melbourne. This Workshop consisted of two days for teacher’s professional development and then three days of a student workshop program. It was a wonderful time spent together and all who attended have great memories.  Melbourne’s festival with Hiroko sensei reminded me of the Japanese summer school in Matsumoto that I attended as a child every year.
 
  Matsumoto summer school was the most important event in the year for me. I came to Matsumoto to see my favourite Dr. Suzuki. Just seeing him made me so happy. During the afternoon group lessons when Dr. Suzuki came onto the stage, the whole atmosphere in the City Hall became brighter and the eyes of children on the stage twinkled, and they all had very big smiles on their faces. We just enjoyed everything we did with Dr. Suzuki and had never being happier playing the violin !
 
  The end of summer school made me so sad and lonely but when thinking of coming back to Matsumoto next year made me happy again and fun memories and happy aftertaste lasted the whole year.
 

  Until 2003, there had been many different guest tutors at the Melbourne festival. I was asked who to invite for the 2004 festival as Melbourne Suzuki wanted a guest tutor from Japan and I suggested Hiroko sensei. After the 2004 festival, the Melbourne teachers wanted Hiroko sensei back again and again and again.

  Since Hiroko sensei started coming to Australia almost every year, continuity and repetition made a  special environment. Hiroko sensei always said that she was there to pass on Dr. Suzuki’s movement and his philosophy. “Let us learn together about Dr. Suzuki and his method” Hiroko sensei never said “ I will teach you”.
 
  I was Hiroko sensei’s interpreter and I was always very nervous yet I enjoyed it very much. I feel there was a very special relationship between Hiroko sensei and the Australian teachers, students and families. Especially for teachers, Hiroko sensei was their “ Suzuki mum”. The relationship was filled with mutual respect, trust, friendship and love. It was truly special. Hiroko sensei’s presence  made everyone around her happy. Her simplicity, openness, sincerity, honesty, humanity, love, sense of humour and her charm were admired by us all. The Australian teachers felt the essence and spirit of Suzuki philosophy in Hiroko sensei.
 
  Hiroko sensei’s tone was with deep love and gentle heart and it was the living proof of “ Beautiful tone, beautiful heart”. She was loved so much as her actions spoke the true message of Suzuki philosophy, “ Where love is deep, much can be accomplished”
 
  The end of each festival was always difficult time to say good bye to Hiroko sensei. As Hiroko sensei said “ Thank you everyone.” We all had big smiles and tearful eyes. Our hearts were always filled with joy, gratitude, love and a bit of sadness. We all wished to see Hiroko sensei at the next festival and the hope of seeing her again gave us extra motivation to try harder. I felt the same at the end of every Matsumoto summer school.
 
  Each year Hiroko sensei and I were hosted by the Ohashi family. During the festival time, I spent all day, every day with Hiroko sensei and it was like a residential camp ! Each morning before breakfast, Hiroko sensei, the Ohashi’s two daughters, Mana & Kana and I would practice in our rooms and the house was filled with tone!  It was like practicing in the “kenkyusei room” in Matsumoto. Every moment was enjoyable.
 
  At Ohashi san’s house, Hiroko sensei always sat on the chair just like Japanese way of sitting on the floor. After coming back from the festival, she always enjoyed her beer, and said “If there were potatoes, I will be in heaven!”
 
  Dr. Suzuki and Mr. Yamamura have long gone but they live with me in my heart. Now, Hiroko sensei also lives in my heart. They are alway showing me the way and direction, not only as a Suzuki teacher but as a human being.
 
  Thank you Hiroko sensei for your life and love. Please continue teaching me to be better each day.


裕子先生の精神は、いつも私のそばにあります

ルース・ミウラ
スペイン(バルセロナ)ピアノ科指導者
  

ルース・ミウラ先生と裕子先生

 多くのスズキ関係者とともに、世界中のスズキ会議に頻繁に参加され、先生や子どもたちに多くの喜びとインスピレーションを与えてくださった鈴木裕子先生が亡くなられたことを、深く悲しんでいます。
 
 2006年1月、シドニー・スズキ・フェスティバルで教えるためにオーストラリアに到着した日に、裕子先生にお会いしたことをとても懐かしく思い出されます。オーストラリアは夏でしたので、日本の先生方と一緒に観光に行こうと誘われて、かなり緊張した(時差ぼけで疲れていた...)のを覚えていますが、裕子先生はとても温かく迎えてくださり、その楽しそうな笑顔を見て、すぐに鈴木鎮一先生のことを思い出しました。鈴木先生のお弟子さんだった先生方とシドニーで一緒に過ごし、先生の生命力を感じ、深い教えを目の当たりにすることができたのは、とても光栄なことでした。 

 彼女の寛大さは、訪問のたびに、先生方に鈴木先生ご愛用のヴァイオリンでの演奏を体験させ、鈴木先生の楽器の一部である精神を受け取ってもらおうとされていたことからもわかります。 

 今頃、彼女は叔父の鈴木先生と喜びの再会を果たされていることでしょう。そして、私たちが教える子どもたちに喜びと幸せをもたらすために、これからも最善を尽くすように、とおっしゃっているのではないでしょうか。

 裕子先生がいなくなってしまわれたことは寂しいですが、彼女の精神はいつも私のそばにあります。 
 

Hiroko-sensei's spirit will always be with me. 

Ruth Miura
Piano Teacher, Barcelona

 

Hiroko-sensei with Mr and Mrs Nakamura and Usui-sensei
in Sydney(photo by Ruth Miura)

 Along with many other Suzuki colleagues, I was deeply saddened by the passing of Mrs. Hiroko Suzuki who brought so much joy and inspiration to teachers and children on her frequent visits to Suzuki conferences around the world. I have such fond memories of meeting Hiroko sensei the day I arrived in  Australia to teach at the Sydney Suzuki Festival in January 2006. It was summer in Australia, and I remember feeling quite nervous (and tired from jet lag..)  about being invited to go out sightseeing together with the Japanese faculty members, but Hiroko sensei was so warm to me and her joyous smile reminded me immediately of Dr Suzuki. It was such an honour to spend time together with the teachers who had been Dr Suzuki's students and to feel their life force and see their profound teaching. 

 Her great generosity was evident on every visit, when she offered to let the teachers experience playing on Dr Suzuki's own violin and to catch some of the spirit which was part of his instrument. 

 I feel sure that she and her uncle, Dr. Suzuki, have had a joyous reunion by now and that they are urging us to continue doing our best to bring joy and happiness to the children we teach.

 I will miss Hiroko sensei's joyous presence, but her spirit will always be with me. 


鈴木裕子先生を偲ぶ

関東地区ヴァイオリン科指導者
正岡紘子 
 

正岡紘子先生(左)と鈴木裕子先生(右)

 鈴木裕子先生のご冥福をお祈り申し上げます。ご逝去の報は旧盆で、墓参りのため帰郷していた先でメールで知り、ショックを受けました。少し前に夏期学校をZoomで開催するというお知らせの中で、モーツァルトを鈴木裕子先生が石川咲子先生と担当されると末廣先生がおっしゃっていらしたので、お元気とばかり思っておりました。私も同じ歳ですから、明日は我が身と思います。
 

 鈴木裕子さんとは、付かず離れず、6歳ごろから今まで、いつも才能教育では、そこにおられる存在でした。初めてお逢いしたのは、終戦後1年以上経って、満州より祖父母のいる松本に来た頃になります。鈴木鎮一先生が木曽福島に疎開なさっておられました。それを知った松本の文化人たちが、高名な先生に信州の地に止まっていただこうと、講演会や松本でのご指導をお願いするために、生徒集めにやっきになっていました。先生の講演に感動した祖母や、ラジオで学生時代にスズキ・クヮルテットをよく聴いていた母の影響で、私は松本音楽院の生徒の一人に加えていただきました。
 
 木曽福島では、裕子さんをはじめ、塩尻の村上豊さんや太田悦子さんらがすでにレッスンを始めておられ、下横田町の芸者の見番だった建物の二階で、先輩たちの演奏を聴かせていただきました。ヴァイオリンを見るのも聴くのも初めての私でしたが、演奏についてはまったく記憶がありません。演奏してくださった裕子さんが、都会風の洒落た洋服で、とても可愛らしくて、見とれておりました。当時の松本の子たちは、ブラウスにもんぺ、といういでたちだったのです。
 

鈴木先生の左が裕子先生、右が正岡紘子先生、
さらに右端に志田とみ子先生も

 もう一つ鮮明に覚えていることは、その裕子さんがことあるごとに「ワシは」とか「ワシの○○は」と、ご自分のことを「ワシ」と呼ぶことでした。これには本当にびっくりしました。木曽ではそういう呼び方をされたのでしょうか。

 鈴木先生が松本に引っ越しされてからは、私どもは松本の先生宅でレッスンをしていただき、ご一家は東京に帰っていかれ、裕子さんともそれほどお会いはしなくなりました。ほどなく、私はアメリカ、ドイツ、オランダでオーケストラに入り、裕子さんは結婚されてドイツに住んでおられ、まったく交流はありませんでした。
 
 彼女がドイツから日本に戻られ、子育てにも一段落された頃のこと、私も松本と東京で指導者をさせていただいておりました。才能教育に裕子さんが戻られて、全国指導者研究会でしたか、ドイツで勉強された素敵な演奏をしてくださいました。その時のヴィターリの「シャコンヌ」は、洗練されたセンスの良い、美しい演奏でした。その後、豊田耕兒先生が音楽学校の指導に加わることになられた時、裕子さんが豊田先生の推薦で加わることになりました。私は、音校生の指導は、鈴木鎮一先生の代から、フルート科の髙橋利夫先生とともに合奏団などのお手伝いをしておりました。
 
 最後のエピソードは、この音校生の指導が20年も続いた後のことです。豊田先生は私たちによる指導から、若い先生に交代させることになり、私と裕子先生の「お別れコンサート」を計画されました。モーツァルトの「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」を、豊田先生の指揮で、音校生の弦楽団の伴奏で弾くというものでした。
 

無事に開催された退任記念演奏会。正岡先生のヴァイオリン、
裕子先生のヴィオラ、指揮は豊田耕兒先生(2008年5月17日)

 ところが、コンサートの3週間前に、私はマンションのエレベーター入口でつまづいて、右手首を真っ直ぐ一文字に骨折してしまいました。痛みがそこそこに引いた後、弓は持てますが、肘を伸ばすと手首に痛みが走り、弓元しか使えませんでした。しかし、ゆるく固定しただけで、弓元から真ん中までで練習を続けました。最終リハーサルは、コンサートの3日前。私は車で松本に向かいました。松本に着くと、同じ中央道で私より2時間ほど後に松本に向かっていた裕子さんは、事故による通行止めにあい、さらに停まっていたところを後続車に追突され、救急車で病院に運ばれたとのことでした。結局、裕子さんは一晩、病院に泊まり、翌日松本に来て、「お別れコンサート」は決行されました。我々はやれやれと笑顔でしたが、指揮の豊田先生と音校生の心配で心配でたまらないという表情は、今でも忘れられません。
 
 裕子先生は、持ち前の笑顔と活発な社交上手で、スズキ・メソードの指導者、生徒、父兄に愛され、親しみやすい方として、スズキ・メソードの4代目の会長も務められ、幸せな人生を送られたと思います。


鈴木裕子先生を偲ぶ

聖路加国際大学名誉教授
宮坂勝之
 

柳沢京子さん、宮坂勝之先生と、信濃町一茶記念館にて

 2019年9月、松本で上演された鈴木鎮一先生の舞台劇は、裕子先生が奏でる「名古屋の子守歌」の、どこか懐かしい音色で始まりました。懐かしいと感じたのは、子どもの頃に聴いた鎮一先生がお使いになったヴァイオリンをお使いになったこともあったのだと後で知りましたが、ご息女の石川咲子先生がお書きになられていますが、魂のこもった演奏でした。私の記憶の中の鎮一先生の弓使いとは少しちがった、とても穏やかな流れに思えました。
 

 あの演奏の一年前の8月、きりえ画家の柳沢京子さんと一緒に野尻湖・一茶記念館を訪れ、俳句英訳のお話をした時の、超明るく元気なイメージが残っていただけに、数日前に緊急処置を受けた病み上がりであったとは、医師の私も気づきませんでした。その後、ご縁で治療のお手伝いをさせていただいた折に弓使いが話題になりました。私があの曲を習ったことがないと知るや、何と楽譜が送られて来ました。
 
 「しっかりお稽古して一緒に演奏しましょう。ドッペルもやるのでお稽古忘れないで」と書かれたメモが同封されていました。私の世代の憧れからの外交麗句に、天にものぼる気持ちでした。しかし、すっかりお見通しで、何と数週間後には「しっかりお稽古していますか」とお電話がありました。根っからのスズキのヴァイオリンの先生だなと思ったものです。後期高齢者同士でこんな会話が自然にできる素地を作ってくださった鎮一先生に感謝するとともに、自然体でその普及に一生を捧げた裕子先生のご冥福を心よりお祈り申しあげます。


鈴木裕子先生は、幼児教育研究会の「夢の懸け橋」でした

スズキ・メソード幼児教育研究会
会長 土居孝信
 

 突然の訃報に接し、自分の耳を疑い茫然自失となり、ご連絡を受けた内容が理解できませんでした。大きく息を吐き、我に返って内容を整理して、ようやく驚きとともに、残念でたまりませんでした。
 

締結調印をされた鈴木裕子会長と江口純弘代表(ともに当時)

 鈴木裕子先生と当会のご縁は、鈴木鎮一先生・田中茂樹先生の教育理念に共感した幼児教育関係者が松本に集い、スズキ・メソードの教えを乞うていた夏期研修会の再結成におけるご理解とご尽力をいただくことが始まりでした。我々の念願していた「才能教育研究会」と「スズキ・メソード幼児教育研究会」の交流・協力に関する協定書の締結調印を行ない、両会の交流と協力を発展させ、スズキ・メソードが推進する幼児教育とさまざまな活動との懸け橋となっていただいたことです。

 

幼児教育研究会メンバーと裕子先生。
左から2番目が土居会長(現在)

このことによって、お互いの研修会・講習会への講師派遣や受講生の受け入れなどが可能となり、当会の発展に大きく貢献をしていただきました。

 その後、裕子先生は、当会の中心園である松本白百合幼稚園の園長先生となられ、内部充実に力を注いでいただき、さらに幼児教育の質の向上にご尽力いただきました。昨年度より、スズキ・メソード0~3歳児コースの先生方と鈴木鎮一先生が選定された小林一茶100句の指導方法をテーマとするシンポジウムや夏期研修会を開催することができました。
 
 また、早野龍五会長にも講演を通じて、スズキのスピリッツや幼児教育についてご教授いただきました。
 
 このように鈴木裕子先生は、当会の「夢の懸け橋」なり、当会の発展に情熱を注いでいただきました。その御恩を心に刻み、世界中の子どもたちの幸せに向け、スズキ・メソードの発展に邁進してまいりますことをお誓い申し上げます。
 
 鈴木裕子先生、「ありがとうございました」