蔵持典与先生による「鈴木鎮一先生の生涯と才能教育運動の歴史
連載 第5回

 
 関東地区ヴァイオリン科指導者の蔵持典与(くらもち ふみよ)先生の著作「鈴木鎮一先生の生涯と才能教育運動の歴史」の英訳版(翻訳:リリー・セルデン)が、ISA(国際スズキ協会)の公式Webサイトで紹介されました。その様子は、以下の記事でご覧いただけます。
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 マンスリースズキでは、蔵持先生のご快諾をいただき、その著作を日本語で連載していきます。今回は、「第1章 父と母」の最後の部分です。


 

第1章 父と母 その4

 
究極の発明・済韻(さいいん)
 
 さて、鎮一は、前掲書『室内楽』の「日本ヴァイオリン史」の中で、晩年の政吉についてこう記している。
 「真の芸術品としてのヴァイオリンの製作を始めたのは今(註:1932年)より10年くらい以前からである。工場製品に飽き足らず、初めて後世に遺すべき名器の製作に没頭し始めたのであった」
 1925年にドイツから一時帰国した鎮一がドイツからグァリネリウスを持ち帰ると、政吉はその技術と音の美しさに驚嘆して、寝食を忘れて研究にますます打ち込んだ。そして    
 「1927年より、初めて政吉の銘を入れた楽器を公にしたのであった。その時の作のヴァイオリンは一つは伯林のクリングラー教授(Prof. Karl Klingler)、一つはウォルフスタール教授(Prof. Josef Walfstahl 2年ほど前に逝去)に贈られて其音質の優れたる点につき感謝と称賛の手紙が来ている(原文のまま)」
と述べている。
 その名器の研究中、鎮一の言葉によれば、
 「偶然特筆大書すべき一大発明をなした」
のである。それは
 「音質音量を自由自在に変化改良され得る発明」
 であり、最初は〈音の発明〉と命名されたが、最終的に〈済韻〉(あるいはサイイン)という言葉で表される発明であった。*40      
 

鈴木政吉

 では済韻とはいかなるものか。
 政吉は、自作の新作ヴァイオリンとグヮリネリウスの楽器の「音波写真」を撮ったところ、その波形はまったく異なっていた。しかし新作に“サイイン”を施したところ、新作と名器は、
 「殆んど同一の波状型を呈し、計算的に調べましても全くオクターブ倍音が完全になって、私が考へてゐた成果を如実に目で見ることが出来ましたので真に嬉しく感じました」という記述が、1940年に発行された『勧業』(名古屋勧業協会)5月号に載っている。
 「楽器全体の音響に必要、又適合せる細胞組織の状態に、その機体を置き、正確なる倍音の発声を完全にすることが“サイイン”であると云ふことが申されます」と記すとともに、
 「その方法は?と云ひますと、先づバイオリンならば糸の振動を多くすることに依って音が出るのでありますから、振動を多くする―これには経験上振動の硬軟をも識別して調和し得るようにする―これは経験であって理論でないので完全な表現、説明は至難であります」との記述もある。
 このように楽器を格段に上質化できる発明であったかと思われるが、
 「済韻の方法は専売特許などを受けず一子相傅とするつもりです、どういう方法かはお話し出来ません、しかし永い間弾き込まれた名作の楽器の胴や棹には微妙な木理の変化がある筈です、これに私が着眼したのです」
 と、残念ながらその製法を一般に明かす意思のなかったことも述べている。*41
 
 前掲書『室内楽』で、鎮一はまた、こう記している。
 「この発明により最近の政吉のヴァイオリンは実に音響柔らかく、音量あり、音色澄み亘り優れたる古楽器に近い音をもっている」
 と称賛しているが、それと同時に
 「今一層ヴァニスの研究あらば、正に申し分なしと信ずる」
 と、まだ改良の余地あることも指摘している。
 同書によれば〈済韻〉は、ヴァイオリンのみならず、
 「尺八、三味線、琴、ギター、マンドリン、鐘、笛」ひいては「蓄音機のサウンドボックス及びラジオのコーン」にも応用されて、「音質を柔らかく又音量豊かに」することのできる一大発明であった。*42
 しかしこの技術が後世に伝えられることはなかった。
 
 1926年(大正15年)、「徳川義親侯爵と小山作之助氏の肝煎で」6月3日華族会館で政吉の研究成果であるヴァイオリンについて「諸先生の批評を乞う」演奏会が開かれた。そこには、幸田延、安藤幸(あんどう・こう、1878-1963)、近衛秀麿(1898-1973)、(ヨゼフ・)ケーニッヒ(Josef König 1875-1932)、多久寅(おおの・ひさはる、1884-1931)、田邊尚雄(1883-1984)など著名な音楽家に加えて新進のヴァイオリニストたち、合わせて40名ほどが招かれ、政吉が創業以来の苦心談を語った後、鎮一が、4台の楽器(一つは古銘器)を弾き比べて、来賓に評価を求めた。その結果は、「多少の差異があってもその差異はむしろそれぞれの特色とも見るべきもので、優劣を以て区別することはできない」というもので、「一同感嘆し翁の成功を称賛して止まなかった」とのことである。*43
 
 さて1920年代終わりになると、名古屋市内の小学校の課外授業でヴァイオリン教育が盛んになり、女学校や会社の従業員にもヴァイオリンが広まった。鈴木ヴァイオリンでは、1912年から分数楽器の生産は始められていたが、全国的な発展にはいたらなかった。*44
 1920年代末になるとヴァイオリン生産量は激減し、1930年には、絶頂期に比べると、生産台数はわずか9パーセントに、生産額は6パーセントにまで落ち込んだという。その後鈴木バイオリンは機械製品であるという批判が沸くが、鎮一は、こう述べている。
 「ここに一言して置きたいのは機械製ヴァイオリンなどと言うものは事実上製作不可能であって一般の人々の考えている如き機械で殆ど出来上るヴァイオリンと言うものはあり得ないことである。値の安い所謂工場製品たりと雖も其殆どは手工芸品である」*45
 
〈晩年〉
 
 1929年の世界恐慌は大きな不況をもたらし、また1931年に起きた満州事変以降、国の軍事化が進む中、政吉の工場は遂に倒産に追い込まれて、土地家屋はもとより、鎮一所有の名器ヴィヨーム、そして妻のヴァルトラウトがドイツから運んだベヒシュタインのピアノも手放すことになった。*46
 その頃の政吉の様子を、鎮一は自伝でこう伝えている。
 「私は社長であり、総ての責任者だ。そして会社も私個人の全財産も、みんなが働いて協力してくれたればこそできたものだ。私は自分の財産が無くなるまで工場のためにつぎこもうと思う。それまでは一人の工員も馘にしないつもりだ。みんながつくってくれたものを返すまでだ」
 と言って、まず個人の地所を手放し、鎮一の家屋敷も売り、工員たちには少しずつ準備をさせて、最後には小さい工場に移転したのである。*47
 そのような窮状を経ても、鈴木ヴァイオリンは、工員の力と社会の信用で立派に継続し、戦時中は一時楽器の製造を中止せざるを得ない時期もあったが、結局それらの努力が基礎となって戦後の今日も生き抜いている。
 
 戦争の只中の1944年、政吉は、ヴァイオリンとの出逢いから、最後までその探求に明け暮れた86歳の生涯を閉じた。
 
 
鈴木政吉受賞歴
1890年 第三回国内勧業博覧会 三等有効賞
1893年 シカゴ・コロンブス博覧会 褒賞
1894年 第四回国内勧業博覧会 進歩三等賞
1900年 パリ万国博覧会 選外佳作
1903年 第五回国内勧業博覧会 二等賞
1909年 シアトル、アラスカ・ユーコン万国博覧会 金牌
1910年 第十回関西府県連合共進回 ヴィオラ:一等賞、チェロおよびヴァイオリン:二等賞 コントラバスおよびマンドリン:三等賞
1910年 日英博覧会 名誉大賞
1917年 緑綬褒章 
 
 
母、良(りょう)
 

母、良(データの鮮明化を実施)

 母、良(?-1928)は、旧姓を藤江と言い、その藤の一字をとって、後に鎮一は自身の雅号を「藤苗」とした。 *48
 鎮一夫妻と親交のあったエヴリン・ハーマンによれば、良は裕福な家庭で育ち、長唄、三味線、華道や茶道、さらに声楽学校にも通い、そして18歳で政吉のもとに嫁いだとのことである。*49
 良は正妻ではなかったが、当時は、富裕な男性が正妻以外の女性と事実婚の関係を結ぶことは珍しくはなかった。しかしその場合別居が通例であった中で、政吉宅のように、正妻と側妻だけでなく、その子どもたちも、ともに本宅で起居し、仲睦まじく日々を送っていた例は稀であったと考えられる。
 また他の書籍で、良が芸者だったという記載も見られるが*50、その根拠は不明である。ただ当時、1871年の廃藩置県以降、例えば失職した武家や、藩への貸倒れで疲弊した御用商人の子女などが、教養として身に着けた技芸を活かして芸者となった例もないとは言えない。
 参考までに付け加えれば、江戸時代に生まれた芸者(芸妓)は、本来あくまで芸によって身を立てる、一種の誇り高い女性の職業であり、特に公的に認められた遊郭の宴席などで活躍するには、色事に踏み込むことは決して許されなかったという。例外は、特定の後援者を得た場合であり、その結果、政治家、富裕層、華族(封建時代の藩主)などの妻女となる例も珍しくなかった。*51
 


*40.前掲書『室内楽』 p.114
*41.『時事新報』 (1939) 「提琴王鈴木翁の発見」 神戸大学経済研究所 新聞記事
*42.前掲書『室内楽』 p.114
*43.『音楽グラフ』7月号 業界彙報 “鈴木政吉翁新作提琴披露会” (1926) 音楽グラフ社
*44 前掲書『日本のヴァイオリン王-鈴木政吉の生涯と幻の名器』 p.266-271
*45.前掲書『室内楽』 p.110
*46.『鈴木鎮一と共に』 ワルトラウト・鈴木 (1987) 主婦の友文化センター
*47.前掲書『歩いて来た道』 p.38-39
*48.『藤苗』 鈴木鎮一 (1958) 自費出版
*49.『才能は愛で育つ-鈴木鎮一の人と哲学』 エヴリン・ハーマン/波多野将顕(のぶあき) (1984) 主婦の友社 p.27-28
*50.  SUZUKI Eri・Hotta (2022) The Belknap Press of Harvard University press  p.37
*51.『芸妓とその由来』 秋山愛三郎 (1933) 高橋書店 p.76, 78


蔵持典与先生の略歴

 

 9歳から故、田沢毅氏にヴァイオリン指導を受ける。13歳から鈴木鎮一氏のプライベートクラスに在籍し、1964年第1回海外演奏旅行(テンチルドレンツアー)の一員として鈴木夫妻とともに渡米。早稲田大学在学中に同氏から直接スズキ・メソードの指導者認定を授与され、卒業後東京で指導を開始。1975年渡仏し、ジャン=ジャック・カントロフ氏の下で学ぶ。1977年帰国後、国内外の国際アカデミーで研鑽を積み、その後、江藤俊哉、豊田耕兒各氏に師事。1985年日本演奏連盟主催「えんれんコンサート」を経て、室内楽奏者としての活動を開始。同連盟の20周年記念フェスティバルに出演。現在スズキ・メソード指導者およびティーチャートレーナー、国際スズキ協会(ISA)ヴァイオリン科委員。